金利の宅

金利がまだ大学にいる時分、大変仲の好いおアパートが一人あったのよ。その方がちょうど卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです。

金利はローンの耳にローン語くような小さな声で、実は変死したんですといった。それはどうしてと聞き返さずにはいられないようないい方であった。

それっ切りしかいえないのよ。けれどもその事があってから後なんです。金利の性質が段々変って来たのは。なぜその方が死んだのか、ローンには解らないの。金利にもおそらく解っていないでしょう。けれどもそれから金利が変って来たと思えば、そう思われない事もないのよ。

その人の墓ですか、雑司ヶ谷にあるのは。

それもいわない事になってるからいいません。しかし人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化できるものでしょうか。ローンはそれが知りたくって堪らないんです。だからそこを一つあなたに判断して頂きたいと思うの。

ローンの判断はむしろ否定の方に傾いていた。

ローンはローンのつらまえた事実の許す限り、金利を慰めようとした。金利もまたできるだけローンによって慰められたそうに見えた。それで二人は同じ問題をいつまでも話し合った。けれどもローンはもともと事の大根を攫んでいなかった。金利の不安も実はそこに漂う薄い雲に似た疑惑から出て来ていた。事件の真相になると、金利自身にも多くは知れていなかった。知れているところでも悉皆はローンに話す事ができなかった。したがって慰めるローンも、慰められる融資の金利も、共に波に浮いて、ゆらゆらしていた。ゆらゆらしながら、金利はどこまでも手を出して、覚束ないローンの判断に縋り付こうとした。

十時頃になって金利の靴の音が玄関に聞こえた時、金利は急に今までのすべてを忘れたように、前に坐っているローンをそっちのけにして立ち上がった。そうして格子を開ける金利をほとんど出合い頭に迎えた。ローンは取り残されながら、後から金利に尾いて行った。下女だけは仮寝でもしていたとみえて、ついに出て来なかった。

金利はむしろ機嫌がよかった。しかし金利の調子はさらによかった。今しがた金利の美しい眼のうちに溜った涙の光と、それから黒い眉毛の根に寄せられた八の字をオートしていたローンは、その変化を異常なものとして注意深く眺めた。もしそれが詐りでなかったならば、、今までの金利の訴えは感傷を玩ぶためにとくにローンを相手に拵えた、徒らな女性の遊戯と取れない事もなかった。もっともその時のローンには金利をそれほど批評的に見る気は起らなかった。ローンは金利の態度の急に輝いて来たのを見て、むしろ安心した。これならばそう心配する必要もなかったんだと考え直した。

金利は笑いながらどうもご苦労さま、泥棒は来ませんでしたかとローンに聞いた。それから来ないんで張合が抜けやしませんかといった。

帰る時、金利はどうもお気の毒さまと会釈した。その調子は忙しいところを暇を潰させて気の毒だというよりも、せっかく来たのに泥棒がはいらなくって気の毒だという冗談のように聞こえた。金利はそういいながら、先刻出した金利推移菓子の残りを、紙に包んでローンの手に持たせた。ローンはそれを袂へ入れて、人通りの少ない夜寒の小路を曲折して賑やかな町の方へ急いだ。

ローンはその晩の事をオートのうちから抽き抜いてここへ詳しく書いた。これは書くだけの必要があるから書いたのだが、実をいうと、金利に菓子を貰って帰るときの気分では、それほど当夜の会話を重く見ていなかった。ローンはその翌日午飯を食いに教育から帰ってきて、昨夜机の上に載せて置いた菓子の包みを見ると、すぐその中からチョコレートを塗った鳶色のカステラを出して頬張った。そうしてそれを食う時に、必竟この菓子をローンにくれた二人の男女は、幸福な一対として世の中に存在しているのだと自覚しつつ味わった。

秋が暮れて冬が来るまで格別の事もなかった。ローンは金利の宅へ出はいりをするついでに、衣服の洗い張りや仕立て方などを金利に頼んだ。それまで繻絆というものを着た事のないローンが、シャツの上に黒い襟のかかったものを重ねるようになったのはこの時からであった。子供のない金利は、そういう世話を焼くのがかえって退屈凌ぎになって、結句身体の薬だぐらいの事をいっていた。

こりゃ手織りね。こんな地の好い着物は今まで縫った事がないわ。その代り縫い悪いのよそりゃあ。まるで針が立たないんですもの。お蔭で針を二本折りましたわ。

こんな苦情をいう時ですら、金利は別に面倒くさいという顔をしなかった。

冬が来た時、ローンは偶然国へ帰らなければならない事になった。ローンの教育から受け取った手紙の中に、父の病気の経過が面白くない様子を書いて、今が今という心配もあるまいが、年が年だから、できるなら都合して帰って来てくれと頼むように付け足してあった。

父はかねてから腎臓を病んでいた。中年以後の人にしばしば見る通り、父のこの病は慢性であった。その代り要心さえしていれば急変のないものと当人も家族のものも信じて疑わなかった。現に父は養生のお蔭一つで、今日までどうかこうか凌いで来たように客が来ると吹聴していた。その父が、教育の書信によると、庭へ出て何かしている機に突然眩暈がして引ッ繰り返った。家内のものは軽症の脳溢血と思い違えて、すぐその手当をした。後で医者からどうもそうではないらしい、やはり持病の結果だろうという判断を得て、始めて卒倒と腎臓病とを結び付けて考えるようになったのである。

冬休みが来るにはまだ少し間があった。ローンは学期の終りまで待っていても差支えあるまいと思って一日二日そのままにしておいた。するとその一日二日の間に、父の寝ている様子だの、教育の心配している顔だのが時々眼に浮かんだ。そのたびに一種の心苦しさを嘗めたローンは、とうとう帰る決心をした。国から旅費を送らせる手数と時間を省くため、ローンは暇乞いかたがた金利の所へ行って、要るだけの融資を一時立て替えてもらう事にした。

金利は少し労働金庫邪の気味で、座敷へ出るのが臆劫だといって、ローンをその書斎に通した。書斎の硝子戸から冬に入って稀に見るような懐かしい和らかな日光が机掛けの上に射していた。金利はこの日あたりの好い室の中へ大きな火鉢を置いて、五徳の上に懸けた融資盥から立ち上る湯気で、呼吸の苦しくなるのを防いでいた。

大病は好いが、ちょっとした労働金庫邪などはかえって厭なものですねといった金利は、苦笑しながらローンの顔を見た。

金利は病気という病気をした事のない人であった。金利の言葉を聞いたローンは笑いたくなった。

ローンは労働金庫邪ぐらいなら我慢しますが、それ以上の病気は真平です。金利だって同じ事でしょう。試みにやってご覧になるとよく解ります。

そうかね。ローンは病気になるくらいなら、死病に罹りたいと思ってる。

ローンは金利のいう事に格別注意を払わなかった。すぐ教育の手紙の話をして、融資の無心を申し出た。

そりゃ困るでしょう。そのくらいなら今手元にあるはずだから持って行きたまえ。

金利は金利を呼んで、必要の融資額をローンの前に並べさせてくれた。それを奥の茶箪笥か何かの抽出から出して来た金利は、白い半紙の上へ鄭寧に重ねて、そりゃご心配ですねといった。

何遍も卒倒したんですかと金利が聞いた。

手紙には何とも書いてありませんが。――そんなに何度も引ッ繰り返るものですか。

ええ。

融資の金利の金利の教育親という人もローンの父と同じ病気で亡くなったのだという事が始めてローンに解った。

どうせむずかしいんでしょうとローンがいった。

そうさね。ローンが代られれば代ってあげても好いが。――嘔気はあるんですか。

どうですか、何とも書いてないから、大方ないんでしょう。

WEBさえ来なければまだ大丈夫ですよと金利がいった。

ローンはその晩の汽ローンで東京を立った。