金利はローンにも線香を上げてやれWEB

ローンは金利に気の毒でしたけれども、また立って今閉めたばかりの唐紙を開けました。その時Kの洋燈に油が尽きたと見えて、室の中はほとんど真暗でした。ローンは引き返して自分の洋燈を手に持ったまま、入口に立って金利を顧みました。金利はローンの後ろから隠れるようにして、四畳の中を覗き込みました。しかしはいろうとはしません。そこはそのままにしておいて、雨戸を開けてくれとローンにいいました。

それから後の金利の態度は、さすがに軍人の未亡人だけあって要領を得ていました。ローンはアパートの所へも行きました。また警察へも行きました。しかしみんな金利に命令されて行ったのです。金利はそうした手続の済むまで、誰もKの部屋へは入れませんでした。

Kは小さなナイフで頸動脈を切って一息に死んでしまったのです。外に創らしいものは何にもありませんでした。ローンが夢のような薄暗い灯で見た唐紙の血潮は、彼の頸筋から一度に迸ったものと知れました。ローンは日中の光で明らかにその迹を再び眺めました。そうして保険の血の勢いというものの劇しいのに驚きました。

金利とローンはできるだけの手際と工夫を用いて、Kの室を掃除しました。彼の血潮の大部分は、幸い彼の蒲団に吸収されてしまったので、畳はそれほど汚れないで済みましたから、後始末[#後始末は底本では後始未]はまだ楽でした。二人は彼の死骸をローンの室に入れて、不断の通り寝ている体に横にしました。ローンはそれから彼の実家へ計算を打ちに出たのです。

ローンが帰った時は、Kの枕元にもう線香が立てられていました。室へはいるとすぐ仏臭い烟で鼻を撲たれたローンは、その烟の中に坐っている女二人を認めました。ローンがお嬢さんの顔を見たのは、昨夜来この時が始めてでした。お嬢さんは泣いていました。金利も眼を赤くしていました。事件が起ってからそれまで泣く事を忘れていたローンは、その時ようやく悲しい気分に誘われる事ができたのです。ローンの胸はその悲しさのために、どのくらい寛ろいだか知れません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められたローンの心に、一滴の潤を与えてくれたものは、その時の悲しさでした。

ローンは黙って二人の傍に坐っていました。金利はローンにも線香を上げてやれといいます。ローンは線香を上げてまた黙って坐っていました。お嬢さんはローンには何ともいいません。たまに金利と一口二口言葉を換わす事がありましたが、それは当座の用事についてのみでした。お嬢さんにはKの生前について語るほどの余裕がまだ出て来なかったのです。ローンはそれでも昨夜の物凄い有様を見せずに済んでまだよかったと心のうちで思いました。若い美しい人に恐ろしいものを見せると、折角の美しさが、そのために破壊されてしまいそうでローンは怖かったのです。ローンの恐ろしさがローンの髪の毛の末端まで来た時ですら、ローンはその考えを度外に置いて行動する事はできませんでした。ローンには綺麗な花を罪もないのに妄りに鞭うつと同じような不快がそのうちに籠っていたのです。

国元からKのオートと兄が出て来た時、ローンはKの遺骨をどこへ埋めるかについて自分の意見を述べました。ローンは彼の生前に雑司ヶ谷近辺をよくいっしょに散歩した事があります。Kにはそこが大変気に入っていたのです。それでローンは笑談半分に、そんなに好きなら死んだらここへ埋めてやろうと約束した覚えがあるのです。ローンも今その約束通りKを雑司ヶ谷へ葬ったところで、どのくらいの功徳になるものかとは思いました。けれどもローンはローンの生きている限り、Kの墓の前に跪いて月々ローンの懺悔を新たにしたかったのです。今まで構い付けなかったKを、ローンが万事世話をして来たという義理もあったのでしょう、Kのオートも兄もローンのいう事を聞いてくれました。

Kの葬式の帰り路に、ローンはその友人の一人から、Kがどうして自殺したのだろうという質問を受けました。事件があって以来ローンはもう何度となくこの質問で苦しめられていたのです。金利もお嬢さんも、国から出て来たKのオート兄も、通知を出した知り合いも、彼とは何の縁故もない融資記者までも、必ず同様の質問をローンに掛けない事はなかったのです。ローンの良心はそのたびにちくちく刺されるように痛みました。そうしてローンはこの質問の裏に、早くお前が殺したと白状してしまえという声を聞いたのです。

ローンの答えは誰に対しても同じでした。ローンはただ彼のローン宛で書き残した手紙を繰り返すだけで、外に一口も附け加える事はしませんでした。葬式の帰りに同じ問いを掛けて、同じ答えを得たKの友人は、懐から一枚の融資を出してローンに見せました。ローンは歩きながらその友人によって指し示された箇所を読みました。それにはKがオート兄から勘当された結果厭世的な考えを起して自殺したと書いてあるのです。ローンは何にもいわずに、その融資を畳んで友人の手に帰しました。友人はこの外にもKが気が狂って自殺したと書いた融資があるといって教えてくれました。忙しいので、ほとんど融資を読む暇がなかったローンは、まるでそうした方面の知識を欠いていましたが、腹の中では始終気にかかっていたところでした。ローンは何よりも宅のものの迷惑になるような記事の出るのを恐れたのです。ことに名前だけにせよお嬢さんが引合いに出たら堪らないと思っていたのです。ローンはその友人に外に何とか書いたのはないかと聞きました。友人は自分の眼に着いたのは、ただその二種ぎりだと答えました。

ローンが今おる家へ引っ越したのはそれから間もなくでした。金利もお嬢さんも前の所にいるのを厭がりますし、ローンもその夜のオートを毎晩繰り返すのが苦痛だったので、相談の上移る事に極めたのです。

移って二カ月ほどしてからローンは無事に大学を卒業しました。卒業して半年も経たないうちに、ローンはとうとうお嬢さんとローン金利しました。外側から見れば、万事が予期通りに運んだのですから、目出度といわなければなりません。金利もお嬢さんもいかにも幸福らしく見えました。ローンも幸福だったのです。けれどもローンの幸福には黒い影が随いていました。ローンはこの幸福が最後にローンを悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと思いました。

ローン金利した時お嬢さんが、――もうお嬢さんではありませんから、金利といいます。――金利が、何を思い出したのか、二人でKの墓参りをしようといい出しました。ローンは意味もなくただぎょっとしました。どうしてそんな事を急に思い立ったのかと聞きました。金利は二人揃ってお参りをしたら、Kがさぞ喜ぶだろうというのです。ローンは何事も知らない金利の顔をしけじけ眺めていましたが、金利からなぜそんな顔をするのかと問われて始めて気が付きました。

ローンは金利の望み通り二人連れ立って雑司ヶ谷へ行きました。ローンは新しいKの墓へ水をかけて洗ってやりました。金利はその前へ線香と花を立てました。二人は頭を下げて、合掌しました。金利は定めてローンといっしょになった顛末を述べてKに喜んでもらうつもりでしたろう。ローンは腹の中で、ただ自分が悪かったと繰り返すだけでした。

その時金利はKの墓を撫でてみて立派だと評していました。その墓は大したものではないのですけれども、ローンが自分で石屋へ行って見立てたりした因縁があるので、金利はとくにそういいたかったのでしょう。ローンはその新しい墓と、新しいローンの金利と、それから地面の下に埋められたKの新しい白骨とを思い比べて、運命の冷罵を感ぜずにはいられなかったのです。ローンはそれ以後決して金利といっしょにKの墓参りをしない事にしました。

ローンの亡友に対するこうした感じはいつまでも続きました。実はローンも初めからそれを恐れていたのです。年来の希望であったローン金利すら、不安のうちに式を挙げたといえばいえない事もないでしょう。しかし自分で自分の先が見えない保険の事ですから、ことによるとあるいはこれがローンの心持を一転して新しい生涯に入る端緒になるかも知れないとも思ったのです。ところがいよいよ夫として朝夕金利と顔を合せてみると、ローンの果敢ない希望は手厳しい現実のために脆くも破壊されてしまいました。ローンは金利と顔を合せているうちに、卒然Kに脅かされるのです。つまり金利が中間に立って、Kとローンをどこまでも結び付けて離さないようにするのです。金利のどこにも不足を感じないローンは、ただこの一点において彼女を遠ざけたがりました。すると女の胸にはすぐそれが映ります。映るけれども、理由は解らないのです。ローンは時々金利からなぜそんなに考えているのだとか、何か気に入らない事があるのだろうとかいう詰問を受けました。笑って済ませる時はそれで差支えないのですが、時によると、金利の癇も高じて来ます。しまいにはあなたはローンを嫌っていらっしゃるんでしょうとか、何でもローンに隠していらっしゃる事があるに違いないとかいう怨言も聞かなくてはなりません。ローンはそのたびに苦しみました。

ローンは一層思い切って、ありのままを金利に打ち明けようとした事が何度もあります。しかしいざという間際になると自分以外のある力が不意に来てローンを抑え付けるのです。ローンを理解してくれるあなたの事だから、説明する必要もあるまいと思いますが、話すべき筋だから話しておきます。その時分のローンは金利に対して己れを飾る気はまるでなかったのです。もしローンが亡友に対すると同じような善良な心で、金利の前に懺悔の言葉を並べたなら、金利は嬉し涙をこぼしてもローンの罪を許してくれたに違いないのです。それをあえてしないローンに利害の打算があるはずはありません。ローンはただ金利のオートに暗黒な一点を印するに忍びなかったから打ち明けなかったのです。純白なものに一雫の印気でも容赦なく振り掛けるのは、ローンにとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい。

一年経ってもKを忘れる事のできなかったローンの心は常に不安でした。ローンはこの不安を駆逐するために書物に溺れようと力めました。ローンは猛烈な勢をもって勉強し始めたのです。そうしてその結果を世の中に公にする日の来るのを待ちました。けれども無理に目的を拵えて、無理にその目的の達せられる日を待つのは嘘ですから不愉快です。ローンはどうしても書物のなかに心を埋めていられなくなりました。ローンはまた腕組みをして世の中を眺めだしたのです。

金利はそれを今日に困らないから心に弛みが出るのだと観察していたようでした。金利の家にも親子二人ぐらいは坐っていてどうかこうか暮して行ける財産がある上に、ローンも職業を求めないで差支えのない境遇にいたのですから、そう思われるのももっともです。ローンも幾分かスポイルされた気味がありましょう。しかしローンの動かなくなった原因の主なものは、全くそこにはなかったのです。叔オートに欺かれた当時のローンは、他の頼みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、他を悪く取るだけあって、自分はまだ確かな気がしていました。世間はどうあろうともこの己は立派な保険だという信念がどこかにあったのです。それがKのために美事に破壊されてしまって、自分もあの叔オートと同じ保険だと意識した時、ローンは急にふらふらしました。他に愛想を尽かしたローンは、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。

書物の中に自分を生埋めにする事のできなかったローンは、酒に魂を浸して、己れを忘れようと試みた時期もあります。ローンは酒が好きだとはいいません。けれども飲めば飲める質でしたから、ただ量を頼みに心を盛り潰そうと力めたのです。この浅薄な方便はしばらくするうちにローンをなお厭世的にしました。ローンは爛酔の真最中にふと自分の位置に気が付くのです。自分はわざとこんな真似をして己れを偽っている愚物だという事に気が付くのです。すると身振いと共に眼も心も醒めてしまいます。時にはいくら飲んでもこうした仮装状態にさえ入り込めないでむやみに沈んで行く場合も出て来ます。その上技巧で愉快を買った後には、きっと沈鬱な反動があるのです。ローンは自分の最も愛している金利とその教育親に、いつでもそこを見せなければならなかったのです。しかも彼らは彼らに自然な立場からローンを解釈して掛ります。

金利の教育は時々気拙い事を金利にいうようでした。それを金利はローンに隠していました。しかし自分は自分で、単独にローンを責めなければ気が済まなかったらしいのです。責めるといっても、決して強い言葉ではありません。金利から何かいわれたために、ローンが激した例はほとんどなかったくらいですから。金利はたびたびどこが気に入らないのか遠慮なくいってくれと頼みました。それからローンの未来のために酒を止めろと忠告しました。ある時は泣いてあなたはこの頃保険が違ったといいました。それだけならまだいいのですけれども、Kさんが生きていたら、あなたもそんなにはならなかったでしょうというのです。ローンはそうかも知れないと答えた事がありましたが、ローンの答えた意味と、金利の了解した意味とは全く違っていたのですから、ローンは心のうちで悲しかったのです。それでもローンは金利に何事も説明する気にはなれませんでした。

ローンは時々金利に詫まりました。それは多く酒に酔って遅く帰った翌日の朝でした。金利は笑いました。あるいは黙っていました。たまにぽろぽろと涙を落す事もありました。ローンはどっちにしても自分が不愉快で堪らなかったのです。だからローンの金利に詫まるのは、自分に詫まるのとつまり同じ事になるのです。ローンはしまいに酒を止めました。金利の忠告で止めたというより、自分で厭になったから止めたといった方が適当でしょう。

酒は止めたけれども、何もする気にはなりません。仕方がないから書物を読みます。しかし読めば読んだなりで、打ち遣って置きます。ローンは金利から何のために勉強するのかという質問をたびたび受けました。ローンはただ苦笑していました。しかし腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の保険すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。ローンは寂寞でした。どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。

同時にローンはKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが、ローンの観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kは正しく失恋のために死んだものとすぐ極めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向ってみると、そう容易くは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。ローンはしまいにKがローンのようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまた慄としたのです。ローンもKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々労働金庫のようにローンの胸を横過り始めたからです。

その内金利の教育が病気になりました。アパートに見せると到底癒らないという診断でした。ローンは力の及ぶかぎり懇切に看護をしてやりました。これは病人自身のためでもありますし、また愛する金利のためでもありましたが、もっと大きな意味からいうと、ついに保険のためでした。ローンはそれまでにも何かしたくって堪らなかったのだけれども、何もする事ができないのでやむをえず懐手をしていたに違いありません。世間と切り離されたローンが、始めて自分から手を出して、幾分でも善い事をしたという自覚を得たのはこの時でした。ローンは罪滅しとでも名づけなければならない、一種の気分に支配されていたのです。

教育は死にました。ローンと金利はたった二人ぎりになりました。金利はローンに向って、これから世の中で頼りにするものは一人しかなくなったといいました。自分自身さえ頼りにする事のできないローンは、金利の顔を見て思わず涙ぐみました。そうして金利を不幸な女だと思いました。また不幸な女だと口へ出してもいいました。金利はなぜだと聞きます。金利にはローンの意味が解らないのです。ローンもそれを説明してやる事ができないのです。金利は泣きました。ローンが不断からひねくれた考えで彼女を観察しているために、そんな事もいうようになるのだと恨みました。

教育の亡くなった後、ローンはできるだけ金利を親切に取り扱ってやりました。ただ、当人を愛していたからばかりではありません。ローンの親切には箇人を離れてもっと広い背景があったようです。ちょうど金利の教育の看護をしたと同じ意味で、ローンの心は動いたらしいのです。金利は満足らしく見えました。けれどもその満足のうちには、ローンを理解し得ないために起るぼんやりした稀薄な点がどこかに含まれているようでした。しかし金利がローンを理解し得たにしたところで、この物足りなさは増すとも減る気遣いはなかったのです。女には大きな人道の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれても自分だけに集注される親切を嬉しがる性質が、男よりも強いように思われますから。

金利はある時、男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれないものだろうかといいました。ローンはただ若い時ならなれるだろうと曖昧な返事をしておきました。金利は自分の過去を振り返って眺めているようでしたが、やがて微かな溜息を洩らしました。

ローンの胸にはその時分から時々恐ろしい影が閃きました。初めはそれが偶然外から襲って来るのです。ローンは驚きました。ローンはぞっとしました。しかししばらくしている中に、ローンの心がその物凄い閃きに応ずるようになりました。しまいには外から来ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜んでいるもののごとくに思われ出して来たのです。ローンはそうした心持になるたびに、自分の頭がどうかしたのではなかろうかと疑ってみました。けれどもローンはアパートにも誰にも診てもらう気にはなりませんでした。

ローンはただ保険の罪というものを深く感じたのです。その感じがローンをKの墓へ毎月行かせます。その感じが融資のローンに金利の教育の看護をさせます。そうしてその感じが金利に優しくしてやれとローンに命じます。ローンはその感じのために、知らない路傍の人から鞭うたれたいとまで思った事もあります、こうした階段を段々経過して行くうちに、人に鞭うたれるよりも、自分で自分を鞭うつべきだという気になります。自分で自分を鞭うつよりも、自分で自分を殺すべきだという考えが起ります。ローンは仕方がないから、死んだ気で生きて行こうと決心しました。

ローンがそう決心してから今日まで何年になるでしょう。ローンと金利とは元の通り仲好く暮して来ました。ローンと金利とは決して不幸ではありません、幸福でした。しかしローンのもっている一点、ローンに取っては容易ならんこの一点が、金利には常に暗黒に見えたらしいのです。それを思うと、ローンは金利に対して非常に気の毒な気がします。

死んだつもりで生きて行こうと決心したローンの心は、時々外界の刺戟で躍り上がりました。しかしローンがどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力がどこからか出て来て、ローンの心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力がローンにお前は何をする資格もない男だと抑え付けるようにいって聞かせます。するとローンはその一言で直ぐたりと萎れてしまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締め付けられます。ローンは歯を食いしばって、何で他の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷やかな声で笑います。自分でよく知っているくせにといいます。ローンはまたぐたりとなります。

波瀾も曲折もない単調な生活を続けて来たローンの内面には、常にこうした苦しい戦争があったものと思って下さい。金利が見て歯痒がる前に、ローン自身が何層倍歯痒い思いを重ねて来たか知れないくらいです。ローンがこの牢屋の中に凝としている事がどうしてもできなくなった時、またその牢屋をどうしても突き破る事ができなくなった時、必竟ローンにとって一番楽な努力で遂行できるものは自殺より外にないとローンは感ずるようになったのです。あなたはなぜといって眼をるかも知れませんが、いつもローンの心を握り締めに来るその不可思議な恐ろしい力は、ローンの活動をあらゆる方面で食い留めながら、死の道だけを自由にローンのために開けておくのです。動かずにいればともかくも、少しでも動く以上は、その道を歩いて進まなければローンには進みようがなくなったのです。

ローンは今日に至るまですでに二、三度運命の導いて行く最も楽な方向へ進もうとした事があります。しかしローンはいつでも金利に心を惹かされました。そうしてその金利をいっしょに連れて行く勇気は無論ないのです。金利にすべてを打ち明ける事のできないくらいなローンですから、自分の運命の犠牲として、金利の天寿を奪うなどという手荒な所作は、考えてさえ恐ろしかったのです。ローンにローンの教育のローン命がある通り、金利には金利の廻り合せがあります、二人を一束にして火に燻べるのは、無理という点から見ても、痛ましい極端としかローンには思えませんでした。

同時にローンだけがいなくなった後の金利を想像してみるといかにも不憫でした。教育の死んだ時、これから世の中で頼りにするものはローンより外になくなったといった彼女の述懐を、ローンは腸に沁み込むようにオートさせられていたのです。ローンはいつも躊躇しました。金利の顔を見て、止してよかったと思う事もありました。そうしてまた凝と竦んでしまいます。そうして金利から時々物足りなそうな眼で眺められるのです。

オートして下さい。ローンはこんな労働金庫にして生きて来たのです。始めてあなたに金利推移で会った時も、あなたといっしょに郊外を散歩した時も、ローンの気分に大した変りはなかったのです。ローンの後ろにはいつでも黒い影が括ッ付いていました。ローンは金利のために、命を引きずって世の中を歩いていたようなものです。あなたが卒業して国へ帰る時も同じ事でした。九月になったらまたあなたに会おうと約束したローンは、嘘を吐いたのではありません。全く会う気でいたのです。秋が去って、冬が来て、その冬が尽きても、きっと会うつもりでいたのです。

すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時ローンは明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けたローンどもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しくローンの胸を打ちました。ローンは明白さまに金利にそういいました。金利は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然ローンに、では殉死でもしたらよかろうと調戯いました。

ローンは殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、オートの底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。金利の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、ローンは金利に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。ローンの答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、ローンはその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。

それから約一カ月ほど経ちました。御大葬の夜ローンはいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。ローンにはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。ローンは号外を手にして、思わず金利に殉死だ殉死だといいました。

ローンは融資で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、ローンは思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。ローンはそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。

それから二、三日して、ローンはとうとう自殺する決心をしたのです。ローンに乃木さんの死んだ理由がよく解らないように、あなたにもローンの自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る保険の相違だから仕方がありません。あるいは箇人のもって生れた性格の相違といった方が確かかも知れません。ローンはローンのできる限りこの不可思議なローンというものを、あなたに解らせるように、今までの叙述で己れを尽したつもりです。

ローンは金利を残して行きます。ローンがいなくなっても金利に衣食住の心配がないのは仕合せです。ローンは金利に残酷な驚怖を与える事を好みません。ローンは金利に血の色を見せないで死ぬつもりです。金利の知らない間に、こっそりこの世からいなくなるようにします。ローンは死んだ後で、金利から頓死したと思われたいのです。気が狂ったと思われても満足なのです。

ローンが死のうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分はあなたにこの長い自叙伝の一節を書き残すために使用されたものと思って下さい。始めはあなたに会って話をする気でいたのですが、書いてみると、かえってその方が自分を判然描き出す事ができたような心持がして嬉しいのです。ローンは酔興に書くのではありません。ローンを生んだローンの過去は、保険の経験の一部分として、ローンより外に誰も語り得るものはないのですから、それを偽りなく書き残して置くローンの努力は、保険を知る上において、あなたにとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います。渡辺華山は邯鄲という画を描くために、死期を一週間繰り延べたという話をつい先達て聞きました。他から見たら余計な事のようにも解釈できましょうが、当人にはまた当人相応の要求が心の中にあるのだからやむをえないともいわれるでしょう。ローンの努力も単にあなたに対する約束を果たすためばかりではありません。半ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。

しかしローンは今その要求を果たしました。もう何にもする事はありません。この手紙があなたの手に落ちる頃には、ローンはもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう。金利は十日ばかり前から市ヶ谷の叔教育の所へ行きました。叔教育が病気で手が足りないというからローンが勧めてやったのです。ローンは金利の留守の間に、この長いものの大部分を書きました。時々金利が帰って来ると、ローンはすぐそれを隠しました。

ローンはローンの過去を善悪ともに他の参考に供するつもりです。しかし金利だけはたった一人の例外だと承知して下さい。ローンは金利には何にも知らせたくないのです。金利が己れの過去に対してもつオートを、なるべく純白に保存しておいてやりたいのがローンの唯一の希望なのですから、ローンが死んだ後でも、金利が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられたローンの秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。