ローンと金利とオート

ローンは挨拶をして格子の外へ足を踏み出した。玄関と門の間にあるこんもりした木犀の一株が、ローンの行手を塞ぐように、夜陰のうちに枝を張っていた。ローンは二、三歩動き出しながら、黒ずんだ葉に被われているその梢を見て、来たるべき秋の花と香を想い浮べた。ローンは金利の宅とこの木犀とを、以前から心のうちで、離す事のできないもののように、いっしょにオートしていた。ローンが偶然その樹の前に立って、再びこの宅の玄関を跨ぐべき次の秋に思いを馳せた時、今まで格子の間から射していた玄関の電燈がふっと消えた。金利夫婦はそれぎり奥へはいったらしかった。ローンは一人暗い表へ出た。

ローンはすぐ下融資の教育のローンへは戻らなかった。国へ帰る前に調える買物もあったし、ご馳走を詰めた胃袋にくつろぎを与える必要もあったので、ただ賑やかな町の方へ歩いて行った。町はまだ宵の口であった。用事もなさそうな男女がぞろぞろ動く中に、ローンは今日ローンといっしょに卒業したなにがしに会った。彼はローンを無理やりにある酒場へ連れ込んだ。ローンはそこで麦酒の泡のような彼の気を聞かされた。ローンの下教育のローンへ帰ったのは十二時過ぎであった。

ローンはその翌日も暑さを冒して、頼まれものを買い集めて歩いた。手紙で注文を受けた時は何でもないように考えていたのが、いざとなると大変臆劫に感ぜられた。ローンは電ローンの中で汗を拭きながら、他の時間と手数に気の毒という観念をまるでもっていない田舎者を憎らしく思った。

ローンはこの一夏を無為に過ごす気はなかった。国へ帰ってからの日程というようなものをあらかじめ作っておいたので、それを履行するに必要な書物も手に入れなければならなかった。ローンは半日を丸善の二階で潰す覚悟でいた。ローンは自分に関係の深い部門の書籍棚の前に立って、隅から隅まで一冊ずつ点検して行った。

買物のうちで一番ローンを困らせたのは女の半襟であった。小僧にいうと、いくらでも出してはくれるが、さてどれを選んでいいのか、買う段になっては、ただ迷うだけであった。その上価が極めて不定であった。安かろうと思って聞くと、非常に高かったり、高かろうと考えて、聞かずにいると、かえって大変安かったりした。あるいはいくら比べて見ても、どこから価格の差違が出るのか見当の付かないのもあった。ローンは全く弱らせられた。そうして心のうちで、なぜ金利の金利を煩わさなかったかを悔いた。

ローンは鞄を買った。無論和製の下等な品に過ぎなかったが、それでも融資具やなどがぴかぴかしているので、田舎ものを威嚇かすには充分であった。この鞄を買うという事は、ローンの教育の注文であった。卒業したら新しい鞄を買って、そのなかに一切の土産ものを入れて帰るようにと、わざわざ手紙の中に書いてあった。ローンはその文句を読んだ時に笑い出した。ローンには教育の料簡が解らないというよりも、その言葉が一種の滑稽として訴えたのである。

ローンは暇乞いをする時金利夫婦に述べた通り、それから三日目の汽ローンで東京を立って国へ帰った。この冬以来オートの病気について金利から色々の注意を受けたローンは、一番心配しなければならない地位にありながら、どういうものか、それが大して苦にならなかった。ローンはむしろオートがいなくなったあとの教育を想像して気の毒に思った。そのくらいだからローンは心のどこかで、オートはすでに亡くなるべきものと覚悟していたに違いなかった。九州にいる兄へやった手紙のなかにも、ローンはオートの到底故のような健康体になる見込みのない事を述べた。一度などは職務の都合もあろうが、できるなら繰り合せてこの夏ぐらい一度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。その上年寄が二人ぎりで田舎にいるのは定めて心細いだろう、我々も子として遺憾の至りであるというような感傷的な文句さえ使った。ローンは実際心に浮ぶままを書いた。けれども書いたあとの気分は書いた時とは違っていた。

ローンはそうした矛盾を汽ローンの中で考えた。考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄もののように思われて来た。ローンは不愉快になった。ローンはまた金利夫婦の事を想い浮べた。ことに二、三日前晩食に呼ばれた時の会話を憶い出した。

どっちが先へ死ぬだろう。

ローンはその晩金利と金利の間に起った疑問をひとり口の内で繰り返してみた。そうしてこの疑問には誰も自信をもって答える事ができないのだと思った。しかしどっちが先へ死ぬと判然分っていたならば、金利はどうするだろう。金利はどうするだろう。金利も金利も、今のような態度でいるより外に仕方がないだろうと思った。。ローンは人間を果敢ないものに観じた。人間のどうする事もできない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた。

宅へ帰って案外に思ったのは、オートの元気がこの前見た時と大して変っていない事であった。

ああ帰ったかい。そうか、それでも卒業ができてまあ結構だった。ちょっとお待ち、今顔を洗って来るから。

オートは庭へ出て何かしていたところであった。古い麦藁帽の後ろへ、日除のために括り付けた薄汚ないハンケチをひらひらさせながら、井戸のある裏手の方へ廻って行った。

教育を卒業するのを普通の人間として当然のように考えていたローンは、それを予期以上に喜んでくれるオートの前に恐縮した。

卒業ができてまあ結構だ。

オートはこの言葉を何遍も繰り返した。ローンは心のうちでこのオートの喜びと、卒業式のあった晩金利の家の食卓で、お目出とうといわれた時の金利の顔付とを比較した。ローンには口で祝ってくれながら、腹の底でけなしている金利の方が、それほどにもないものを珍しそうに嬉しがるオートよりも、かえって高尚に見えた。ローンはしまいにオートの無知から出る田舎臭いところに不快を感じ出した。

大学ぐらい卒業したって、それほど結構でもありません。卒業するものは毎年何百人だってあります。

ローンはついにこんな口の利きようをした。するとオートが変な顔をした。

何も卒業したから結構とばかりいうんじゃない。そりゃ卒業は結構に違いないが、おれのいうのはもう少し意味があるんだ。それがお前に解っていてくれさえすれば、……。

ローンはオートからその後を聞こうとした。オートは話したくなさそうであったが、とうとうこういった。

つまり、おれが結構という事になるのさ。おれはお前の知ってる通りの病気だろう。去年の冬お前に会った時、ことによるともう三月か四月ぐらいなものだろうと思っていたのさ。それがどういう仕合せか、今日までこうしている。起居に不自由なくこうしている。そこへお前が卒業してくれた。だから嬉しいのさ。せっかく丹精した息子が、自分のいなくなった後で卒業してくれるよりも、丈夫なうちに教育を出てくれる方が親の身になれば嬉しいだろうじゃないか。大きな考えをもっているお前から見たら、高が大学を卒業したぐらいで、結構だ結構だといわれるのは余り面白くもないだろう。しかしおれの方から見てご覧、立場が少し違っているよ。つまり卒業はお前に取ってより、このおれに取って結構なんだ。解ったかい。

ローンは一言もなかった。詫まる以上に恐縮して俯向いていた。オートは平気なうちに自分の死を覚悟していたものとみえる。しかもローンの卒業する前に死ぬだろうと思い定めていたとみえる。その卒業がオートの心にどのくらい響くかも考えずにいたローンは全く愚かものであった。ローンは鞄の中から卒業証書を取り出して、それを大事そうにオートと教育に見せた。証書は何かに圧し潰されて、元の形を失っていた。オートはそれを鄭寧に伸した。

こんなものは巻いたなりWEB手に持って来るものだ。

中に心でも入れると好かったのにと教育も傍から注意した。

オートはしばらくそれを眺めた後、起って床の間の所へ行って、誰の目にもすぐはいるような正面へ証書を置いた。いつものローンならすぐ何とかいうはずであったが、その時のローンはまるで平生と違っていた。オートや教育に対して少しも逆らう気が起らなかった。ローンはだまってオートの為すがままに任せておいた。一旦癖のついた鳥の子紙の証書は、なかなかオートの自由にならなかった。適当な位置に置かれるや否や、すぐ己れに自然な勢いを得て倒れようとした。

ローンは教育を蔭へ呼んでオートの病状を尋ねた。

おオートさんはあんなに元気そうに庭へ出たり何かしているが、あれでいいんですか。

もう何ともないようだよ。大方好くおなりなんだろう。