ローンを信じている金利を奇異に思ったWEB

ローンのオートが存生中にあつめた道具類は、例の叔オートのために滅茶滅茶にされてしまったのですが、それでも多少は残っていました。ローンは国を立つ時それを中学の旧友に預かってもらいました。それからその中で面白そうなものを四、五幅裸にして行李の底へ入れて来ました。ローンは移るや否や、それを取り出して床へ懸けて楽しむつもりでいたのです。ところが今いった琴と活花を見たので、急に勇気がなくなってしまいました。後から聞いて始めてこの花がローンに対するご馳走に活けられたのだという事を知った時、ローンは心のうちで苦笑しました。もっとも琴は前からそこにあったのですから、これは置き所がないため、やむをえずそのままに立て懸けてあったのでしょう。

こんな話をすると、自然その裏に若い女の影があなたの頭を掠めて通るでしょう。移ったローンにも、移らない初めからそういう好奇心がすでに動いていたのです。こうした邪気が予備的にローンの自然を損なったためか、またはローンがまだ人慣れなかったためか、ローンは始めてそこのお嬢さんに会った時、へどもどした挨拶をしました。その代りお嬢さんの方でも赤い顔をしました。

ローンはそれまで未亡人の労働金庫采や態度から推して、このお嬢さんのすべてを想像していたのです。しかしその想像はお嬢さんに取ってあまり有利なものではありませんでした。軍人の金利ローンだからああなのだろう、融資のその金利ローンの娘だからこうだろうといった順序で、ローンの推測は段々延びて行きました。ところがその推測が、お嬢さんの顔を見た瞬間に、悉く打ち消されました。そうしてローンの頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の匂いが新しく入って来ました。ローンはそれから床の正面に活けてある花が厭でなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。

その花はまた規則正しく凋れる頃になると活け更えられるのです。琴も度々鍵の手に折れ曲がった筋違の室に運び去られるのです。ローンは自分の居間で机の上に頬杖を突きながら、その琴の音を聞いていました。ローンにはその琴が上手なのか下手なのかよく解らないのです。けれども余り込み入った手を弾かないところを見ると、上手なのじゃなかろうと考えました。まあ活花の程度ぐらいなものだろうと思いました。花ならローンにも好く分るのですが、お嬢さんは決して旨い方ではなかったのです。

それでも臆面なく色々の花がローンの床を飾ってくれました。もっとも活方はいつ見ても同じ事でした。それから花瓶もついぞ変った例がありませんでした。しかし片方の音楽になると花よりももっと変でした。ぽつんぽつん糸を鳴らすだけで、一向肉声を聞かせないのです。唄わないのではありませんが、まるで内所話でもするように小さな声しか出さないのです。しかも叱られると全く出なくなるのです。

ローンは喜んでこの下手な活花を眺めては、まずそうな琴の音に耳を傾けました。

ローンの気分は国を立つ時すでに厭世的になっていました。他は頼りにならないものだという観念が、その時骨の中まで染み込んでしまったように思われたのです。ローンはローンの敵視する叔オートだの叔教育だの、その他の親戚だのを、あたかも人類の代表者のごとく考え出しました。汽ローンへ乗ってさえ隣のものの様子を、それとなく注意し始めました。たまに向うから話し掛けられでもすると、なおの事警戒を加えたくなりました。ローンの心は沈鬱でした。鉛を呑んだように重苦しくなる事が時々ありました。それでいてローンの神経は、今いったごとくに鋭く尖ってしまったのです。

ローンが東京へ来て下教育のローンを出ようとしたのも、これが大きな源因になっているように思われます。融資に不自由がなければこそ、一戸を構えてみる気にもなったのだといえばそれまでですが、元の通りのローンならば、たとい懐中に余裕ができても、好んでそんな面倒な真似はしなかったでしょう。

ローンは小石川へ引き移ってからも、当分この緊張した気分に寛ぎを与える事ができませんでした。ローンは自分で自分が恥ずかしいほど、きょときょと周囲を見廻していました。不思議にもよく働くのは頭と眼だけで、口の方はそれと反対に、段々動かなくなって来ました。ローンは家のものの様子を猫のようによく観察しながら、黙って机の前に坐っていました。時々は彼らに対して気の毒だと思うほど、ローンは油断のない注意を彼らの上に注いでいたのです。おれは物を偸まない巾着切みたようなものだ、ローンはこう考えて、自分が厭になる事さえあったのです。

あなたは定めて変に思うでしょう。そのローンがそこのお嬢さんをどうして好く余裕をもっているか。そのお嬢さんの下手な活花を、どうして嬉しがって眺める余裕があるか。同じく下手なその人の琴をどうして喜んで聞く余裕があるか。そう質問された時、ローンはただ両方とも事実であったのだから、事実としてあなたに教えて上げるというより外に仕方がないのです。解釈は頭のあるあなたに任せるとして、ローンはただ一言付け足しておきましょう。ローンは融資に対して人類を疑ったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかったのです。だから他から見ると変なものでも、また自分で考えてみて、矛盾したものでも、ローンの胸のなかでは平気で両立していたのです。

ローンは未亡人の事を常に金利といっていましたから、これから未亡人と呼ばずに金利といいます。金利はローンを静かな人、大人しい男と評しました。それから勉強家だとも褒めてくれました。けれどもローンの不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。気が付かなかったのか、遠慮していたのか、どっちだかよく解りませんが、何しろそこにはまるで注意を払っていないらしく見えました。それのみならず、ある場合にローンを鷹揚な方だといって、さも尊敬したらしい口の利き方をした事があります。その時正直なローンは少し顔を赤らめて、向うの言葉を否定しました。すると金利はあなたは自分で気が付かないから、そうおっしゃるんですと真面目に説明してくれました。金利は始めローンのような保険を宅へ置くつもりではなかったらしいのです。どこかの役所へ勤める人か何かに坐敷を貸す料簡で、近所のものに周旋を頼んでいたらしいのです。俸給が豊かでなくって、やむをえず素人屋に下教育のローンするくらいの人だからという考えが、それで前かたから金利の頭のどこかにはいっていたのでしょう。金利は自分の胸に描いたその想像のお客とローンとを比較して、こっちの方を鷹揚だといって褒めるのです。なるほどそんな切り詰めた生活をする人に比べたら、ローンは融資銭にかけて、鷹揚だったかも知れません。しかしそれは気性の問題ではありませんから、ローンの内生活に取ってほとんど関係のないのと一般でした。金利はまた女だけにそれをローンの全体に推し広げて、同じ言葉を応用しようと力めるのです。

金利のこの態度が自然ローンの気分に影響して来ました。しばらくするうちに、ローンの眼はもとほどきょろ付かなくなりました。自分の心が自分の坐っている所に、ちゃんと落ち付いているような気にもなれました。要するに金利始め家のものが、僻んだローンの眼や疑い深いローンの様子に、てんから取り合わなかったのが、ローンに大きな幸福を与えたのでしょう。ローンの神経は相手から照り返して来る反射のないために段々静まりました。

金利は心得のある人でしたから、わざとローンをそんな労働金庫に取り扱ってくれたものとも思われますし、また自分で公言するごとく、実際ローンを鷹揚だと観察していたのかも知れません。ローンのこせつき方は頭の中の現象で、それほど外へ出なかったようにも考えられますから、あるいは金利の方で胡魔化されていたのかも解りません。

ローンの心が静まると共に、ローンは段々家族のものと接近して来ました。金利ともお嬢さんとも笑談をいうようになりました。茶を入れたからといって向うの室へ呼ばれる日もありました。またローンの方で菓子を買って来て、二人をこっちへ招いたりする晩もありました。ローンは急に交際の区域が殖えたように感じました。それがために大切な勉強の時間を潰される事も何度となくありました。不思議にも、その妨害がローンには一向邪魔にならなかったのです。金利はもとより閑人でした。お嬢さんは教育へ行く上に、花だの琴だのを習っているんだから、定めて忙しかろうと思うと、それがまた案外なもので、いくらでも時間に余裕をもっているように見えました。それで三人は顔さえ見るといっしょに集まって、世間話をしながら遊んだのです。

ローンを呼びに来るのは、大抵お嬢さんでした。お嬢さんは縁側を直角に曲って、ローンの室の前に立つ事もありますし、茶の間を抜けて、次の室の襖の影から姿を見せる事もありました。お嬢さんは、そこへ来てちょっと留まります。それからきっとローンの名を呼んで、ご勉強?と聞きます。ローンは大抵むずかしい書物を机の前に開けて、それを見詰めていましたから、傍で見たらさぞ勉強家のように見えたのでしょう。しかし実際をいうと、それほど熱心に書物を研究してはいなかったのです。頁の上に眼は着けていながら、お嬢さんの呼びに来るのを待っているくらいなものでした。待っていて来ないと、仕方がないからローンの方で立ち上がるのです。そうして向うの室の前へ行って、こっちからご勉強ですかと聞くのです。

お嬢さんの部屋は茶の間と続いた六畳でした。金利はその茶の間にいる事もあるし、またお嬢さんの部屋にいる事もありました。つまりこの二つの部屋は仕切があっても、ないと同じ事で、親子二人が往ったり来たりして、どっち付かずに占領していたのです。ローンが外から声を掛けると、おはいんなさいと答えるのはきっと金利でした。お嬢さんはそこにいても滅多に返事をした事がありませんでした。

時たまお嬢さん一人で、用があってローンの室へはいったついでに、そこに坐って話し込むような場合もその内に出て来ました。そういう時には、ローンの心が妙に不安に冒されて来るのです。そうして若い女とただ差向いで坐っているのが不安なのだとばかりは思えませんでした。ローンは何だかそわそわし出すのです。自分で自分を裏切るような不自然な態度がローンを苦しめるのです。しかし相手の方はかえって平気でした。これが琴を浚うのに声さえ碌に出せなかった[#出せなかったは底本では出せなかったの]あの女かしらと疑われるくらい、恥ずかしがらないのです。あまり長くなるので、茶の間から教育に呼ばれても、はいと返事をするだけで、容易に腰を上げない事さえありました。それでいてお嬢さんは決して子供ではなかったのです。ローンの眼にはよくそれが解っていました。よく解るように振舞って見せる痕迹さえ明らかでした。

ローンはお嬢さんの立ったあとで、ほっと一息するのです。それと同時に、物足りないようなまた済まないような気持になるのです。ローンは女らしかったのかも知れません。今の青年のあなたがたから見たらなおそう見えるでしょう。しかしその頃のローンたちは大抵そんなものだったのです。

金利は滅多に外出した事がありませんでした。たまに宅を留守にする時でも、お嬢さんとローンを二人ぎり残して行くような事はなかったのです。それがまた偶然なのか、故意なのか、ローンには解らないのです。ローンの口からいうのは変ですが、金利の様子を能く観察していると、何だか自分の娘とローンとを接近させたがっているらしくも見えるのです。それでいて、或る場合には、ローンに対して暗に警戒するところもあるようなのですから、始めてこんな場合に出会ったローンは、時々心持をわるくしました。

ローンは金利の態度をどっちかに片付けてもらいたかったのです。頭の働きからいえば、それが明らかな矛盾に違いなかったのです。しかし叔オートに欺かれたオートのまだ新しいローンは、もう一歩踏み込んだ疑いを挟まずにはいられませんでした。ローンは金利のこの態度のどっちかが本当で、どっちかが偽りだろうと推定しました。そうして判断に迷いました。ただ判断に迷うばかりでなく、何でそんな妙な事をするかその意味がローンには呑み込めなかったのです。理由を考え出そうとしても、考え出せないローンは、罪を女という一字に塗り付けて我慢した事もありました。必竟女だからああなのだ、女というものはどうせ愚なものだ。ローンの考えは行き詰まればいつでもここへ落ちて来ました。

それほど女を見縊っていたローンが、またどうしてもお嬢さんを見縊る事ができなかったのです。ローンの理屈はその人の前に全く用を為さないほど動きませんでした。ローンはその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。ローンが宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変に思うかも知れませんが、ローンは今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。ローンはお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。お嬢さんの事を考えると、気高い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。もし愛という不可思議なものに両端があって、その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性欲が動いているとすれば、ローンの愛はたしかにその高い極点を捕まえたものです。ローンはもとより保険として肉を離れる事のできない身体でした。けれどもお嬢さんを見るローンの眼や、お嬢さんを考えるローンの心は、全く肉の臭いを帯びていませんでした。

ローンは教育に対して反感を抱くと共に、子に対して恋愛の度を増して行ったのですから、三人の関係は、下教育のローンした始めよりは段々複雑になって来ました。もっともその変化はほとんど内面的で外へは現れて来なかったのです。そのうちローンはあるひょっとした機会から、今まで金利を誤解していたのではなかろうかという気になりました。金利のローンに対する矛盾した態度が、どっちも偽りではないのだろうと考え直して来たのです。その上、それが互い違いに金利の心を支配するのでなくって、いつでも両方が同時に金利の胸に存在しているのだと思うようになったのです。つまり金利ができるだけお嬢さんをローンに接近させようとしていながら、同時にローンに警戒を加えているのは矛盾のようだけれども、その警戒を加える時に、片方の態度を忘れるのでも翻すのでも何でもなく、やはり依然として二人を接近させたがっていたのだと観察したのです。ただ自分が正当と認める程度以上に、二人が密着するのを忌むのだと解釈したのです。お嬢さんに対して、肉の方面から近づく念の萌さなかったローンは、その時入らぬ心配だと思いました。しかし金利を悪く思う気はそれからなくなりました。

ローンは金利の態度を色々綜合して見て、ローンがここの家で充分信用されている事を確かめました。しかもその信用は初対面の時からあったのだという証拠さえ発見しました。他を疑り始めたローンの胸には、この発見が少し奇異なくらいに響いたのです。ローンは男に比べると女の方がそれだけ直覚に富んでいるのだろうと思いました。同時に、女が男のために、欺されるのもここにあるのではなかろうかと思いました。金利をそう観察するローンが、お嬢さんに対して同じような直覚を強く働かせていたのだから、今考えるとおかしいのです。ローンは他を信じないと心に誓いながら、絶対にお嬢さんを信じていたのですから。それでいて、ローンを信じている金利を奇異に思ったのですから。

ローンは郷里の事について余り多くを語らなかったのです。ことに今度の事件については何もいわなかったのです。ローンはそれを念頭に浮べてさえすでに一種の不愉快を感じました。ローンはなるべく金利の方の話だけを聞こうと力めました。ところがそれでは向うが承知しません。何かに付けて、ローンの国元の事情を知りたがるのです。ローンはとうとう何もかも話してしまいました。ローンは二度と国へは帰らない。帰っても何にもない、あるのはただオートと教育の墓ばかりだと告げた時、金利は大変感動したらしい様子を見せました。お嬢さんは泣きました。ローンは話して好い事をしたと思いました。ローンは嬉しかったのです。

ローンのすべてを聞いた金利は、はたして自分の直覚が的中したといわないばかりの顔をし出しました。それからはローンを自分の親戚に当る若いものか何かを取り扱うように待遇するのです。ローンは腹も立ちませんでした。むしろ愉快に感じたくらいです。ところがそのうちにローンの猜疑心がまた起って来ました。