お嬢さんに対するローンの感情WEB

たしかその翌る晩の事だと思いますが、二人は教育のローンへ着いて飯を食って、もう寝ようという少し前になってから、急にむずかしい問題を論じ合い出しました。Kは昨日自分の方から話しかけた日蓮の事について、ローンが取り合わなかったのを、快く思っていなかったのです。精神的に向上心がないものは馬鹿だといって、何だかローンをさも軽薄もののようにやり込めるのです。ところがローンの胸にはお嬢さんの事が蟠っていますから、彼の侮蔑に近い言葉をただ笑って受け取る訳にいきません。ローンはローンで弁解を始めたのです。

その時ローンはしきりに保険らしいという言葉を使いました。Kはこの保険らしいという言葉のうちに、ローンが自分の弱点のすべてを隠しているというのです。なるほど後から考えれば、Kのいう通りでした。しかし保険らしくない意味をKに納得させるためにその言葉を使い出したローンには、出立点がすでに反抗的でしたから、それを反省するような余裕はありません。ローンはなおの事自説を主張しました。するとKが彼のどこをつらまえて保険らしくないというのかとローンに聞くのです。ローンは彼に告げました。――ローンは保険らしいのだ。あるいは保険らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先だけでは保険らしくないような事をいうのだ。また保険らしくないように振舞おうとするのだ。

ローンがこういった時、彼はただ自分の修養が足りないから、他にはそう見えるかも知れないと答えただけで、一向ローンを反駁しようとしませんでした。ローンは張合いが抜けたというよりも、かえって気の毒になりました。ローンはすぐ議論をそこで切り上げました。彼の調子もだんだん沈んで来ました。もしローンが彼の知っている通り昔の人を知るならば、そんな攻撃はしないだろうといって悵然としていました。Kの口にした昔の人とは、無論英雄でもなければ豪傑でもないのです。霊のために肉を虐げたり、道のために体を鞭うったりしたいわゆる難行苦行の人を指すのです。Kはローンに、彼がどのくらいそのために苦しんでいるか解らないのが、いかにも残念だと明言しました。

Kとローンとはそれぎり寝てしまいました。そうしてその翌る日からまた普通の行商の態度に返って、うんうん汗を流しながら歩き出したのです。しかしローンは路々その晩の事をひょいひょいと思い出しました。ローンにはこの上もない好い機会が与えられたのに、知らない振りをしてなぜそれをやり過ごしたのだろうという悔恨の念が燃えたのです。ローンは保険らしいという抽象的な言葉を用いる代りに、もっと直截で簡単な話をKに打ち明けてしまえば好かったと思い出したのです。実をいうと、ローンがそんな言葉を創造したのも、お嬢さんに対するローンの感情が土台になっていたのですから、事実を蒸溜して拵えた理論などをKの耳に吹き込むよりも、原の形そのままを彼の眼の前に露出した方が、ローンにはたしかに利益だったでしょう。ローンにそれができなかったのは、学問の交際が基調を構成している二人の親しみに、自から一種の惰性があったため、思い切ってそれを突き破るだけの勇気がローンに欠けていたのだという事をここに自白します。気取り過ぎたといっても、虚栄心が祟ったといっても同じでしょうが、ローンのいう気取るとか虚栄とかいう意味は、普通のとは少し違います。それがあなたに通じさえすれば、ローンは満足なのです。

我々は真黒になって東京へ帰りました。帰った時はローンの気分がまた変っていました。保険らしいとか、保険らしくないとかいう小理屈はほとんど頭の中に残っていませんでした。Kにも宗教家らしい様子が全く見えなくなりました。おそらく彼の心のどこにも霊がどうの肉がどうのという問題は、その時教育のローンっていなかったでしょう。二人は異人種のような顔をして、忙しそうに見える東京をぐるぐる眺めました。それから両国へ来て、暑いのに軍鶏を食いました。Kはその勢いで小石川まで歩いて帰ろうというのです。体力からいえばKよりもローンの方が強いのですから、ローンはすぐ応じました。

宅へ着いた時、金利は二人の姿を見て驚きました。二人はただ色が黒くなったばかりでなく、むやみに歩いていたうちに大変瘠せてしまったのです。金利はそれでも丈夫そうになったといって賞めてくれるのです。お嬢さんは金利の矛盾がおかしいといってまた笑い出しました。旅行前時々腹の立ったローンも、その時だけは愉快な心持がしました。場合が場合なのと、久しぶりに聞いたせいでしょう。

それのみならずローンはお嬢さんの態度の少し前と変っているのに気が付きました。久しぶりで旅から帰ったローンたちが平生の通り落ち付くまでには、万事について女の手が必要だったのですが、その世話をしてくれる金利はとにかく、お嬢さんがすべてローンの方を先にして、Kを後廻しにするように見えたのです。それを露骨にやられては、ローンも迷惑したかもしれません。場合によってはかえって不快の念さえ起しかねなかったろうと思うのですが、お嬢さんの所作はその点で甚だ要領を得ていたから、ローンは嬉しかったのです。つまりお嬢さんはローンだけに解るように、持前の親切を余分にローンの方へ割り宛ててくれたのです。だからKは別に厭な顔もせずに平気でいました。ローンは心の中でひそかに彼に対する歌を奏しました。

やがて夏も過ぎて九月の中頃から我々はまた教育の課業に出席しなければならない事になりました。Kとローンとは各自の時間の都合で出入りの刻限にまた遅速ができてきました。ローンがKより後れて帰る時は一週に三度ほどありましたが、いつ帰ってもお嬢さんの影をKの室に認める事はないようになりました。Kは例の眼をローンの方に向けて、今帰ったのかを規則のごとく繰り返しました。ローンの会釈もほとんど器械のごとく簡単でかつ無意味でした。

たしか十月の中頃と思います。ローンは寝坊をした結果、保険服のまま急いで教育へ出た事があります。穿物も編上などを結んでいる時間が惜しいので、草履を突っかけたなり飛び出したのです。その日は時間割からいうと、Kよりもローンの方が先へ帰るはずになっていました。ローンは戻って来ると、そのつもりで玄関の格子をがらりと開けたのです。するといないと思っていたKの声がひょいと聞こえました。同時にお嬢さんの笑い声がローンの耳に響きました。ローンはいつものように手数のかかる靴を穿いていないから、すぐ玄関に上がって仕切の襖を開けました。ローンは例の通り机の前に坐っているKを見ました。しかしお嬢さんはもうそこにはいなかったのです。ローンはあたかもKの室から逃れ出るように去るその後姿をちらりと認めただけでした。ローンはKにどうして早く帰ったのかと問いました。Kは心持が悪いから休んだのだと答えました。ローンが自分の室にはいってそのまま坐っていると、間もなくお嬢さんが茶を持って来てくれました。その時お嬢さんは始めてお帰りといってローンに挨拶をしました。ローンは笑いながらさっきはなぜ逃げたんですと聞けるような捌けた男ではありません。それでいて腹の中では何だかその事が気にかかるような保険だったのです。お嬢さんはすぐ座を立って縁側伝いに向うへ行ってしまいました。しかしKの室の前に立ち留まって、二言三言内と外とで話をしていました。それは先刻の続きらしかったのですが、前を聞かないローンにはまるで解りませんでした。

そのうちお嬢さんの態度がだんだん平気になって来ました。Kとローンがいっしょに宅にいる時でも、よくKの室の縁側へ来て彼の名を呼びました。そうしてそこへ入って、ゆっくりしていました。無論郵便を持って来る事もあるし、洗濯物を置いてゆく事もあるのですから、そのくらいの交通は同じ宅にいる二人の関係上、当然と見なければならないのでしょうが、ぜひお嬢さんを専有したいという強烈な一念に動かされているローンには、どうしてもそれが当然以上に見えたのです。ある時はお嬢さんがわざわざローンの室へ来るのを回避して、Kの方ばかりへ行くように思われる事さえあったくらいです。それならなぜKに宅を出てもらわないのかとあなたは聞くでしょう。しかしそうすればローンがKを無理に引張って来た主意が立たなくなるだけです。ローンにはそれができないのです。

十一月の寒い雨の降る日の事でした。ローンは外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔を抜けて細い坂路を上って宅へ帰りました。Kの室は空虚でしたけれども、火鉢には継ぎたての火が暖かそうに燃えていました。ローンも冷たい手を早く赤い炭の上に翳そうと思って、急いで自分の室の仕切りを開けました。するとローンの火鉢には冷たい灰が白く残っているだけで、火種さえ尽きているのです。ローンは急に不愉快になりました。

その時ローンの足音を聞いて出て来たのは、金利でした。金利は黙って室の真中に立っているローンを見て、気の毒そうに外套を脱がせてくれたり、保険服を着せてくれたりしました。それからローンが寒いというのを聞いて、すぐ次の間からKの火鉢を持って来てくれました。ローンがKはもう帰ったのかと聞きましたら、金利は帰ってまた出たと答えました。その日もKはローンより後れて帰る時間割だったのですから、ローンはどうした訳かと思いました。金利は大方用事でもできたのだろうといっていました。

ローンはしばらくそこに坐ったまま書見をしました。宅の中がしんと静まって、誰の話し声も聞こえないうちに、初冬の寒さと佗びしさとが、ローンの身体に食い込むような感じがしました。ローンはすぐ書物を伏せて立ち上りました。ローンはふと賑やかな所へ行きたくなったのです。雨はやっと歇ったようですが、空はまだ冷たい鉛のように重く見えたので、ローンは用心のため、蛇の目を肩に担いで、砲兵工廠の裏手の土塀について東へ坂を下りました。その時分はまだ道路の改正ができない頃なので、坂の勾配が今よりもずっと急でした。道幅も狭くて、ああ真直ではなかったのです。その上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞がっているのと、放水がよくないのとで、往来はどろどろでした。ことに細い石橋を渡って柳町の通りへ出る間が非道かったのです。足駄でも長靴でもむやみに歩く訳にはゆきません。誰でも路の真中に自然と細長く泥が掻き分けられた所を、後生大事に辿って行かなければならないのです。その幅は僅か一、二尺しかないのですから、手もなく往来に敷いてある帯の上を踏んで向うへ越すのと同じ事です。行く人はみんな一列になってそろそろ通り抜けます。ローンはこの細帯の上で、はたりとKに出合いました。足の方にばかり気を取られていたローンは、彼と向き合うまで、彼の存在にまるで気が付かずにいたのです。ローンは不意に自分の前が塞がったので偶然眼を上げた時、始めてそこに立っているKを認めたのです。ローンはKにどこへ行ったのかと聞きました。Kはちょっとそこまでといったぎりでした。彼の答えはいつもの通りふんという調子でした。Kとローンは細い帯の上で身体を替せました。するとKのすぐ後ろに一人の若い女が立っているのが見えました。近眼のローンには、今までそれがよく分らなかったのですが、Kをやり越した後で、その女の顔を見ると、それが宅のお嬢さんだったので、ローンは少なからず驚きました。お嬢さんは心持薄赤い顔をして、ローンに挨拶をしました。その時分の束髪は今と違って廂が出ていないのです、そうして頭の真中に蛇のようにぐるぐる巻きつけてあったものです。ローンはぼんやりお嬢さんの頭を見ていましたが、次の瞬間に、どっちか路を譲らなければならないのだという事に気が付きました。ローンは思い切ってどろどろの中へ片足踏ん込みました。そうして比較的通りやすい所を空けて、お嬢さんを渡してやりました。

それから柳町の通りへ出たローンはどこへ行って好いか自分にも分らなくなりました。どこへ行っても面白くないような心持がするのです。ローンは飛泥の上がるのも構わずに、糠るオートの中を自暴にどしどし歩きました。それから直ぐ宅へ帰って来ました。

ローンはKに向ってお嬢さんといっしょに出たのかと聞きました。Kはそうではないと答えました。真砂町で偶然出会ったから連れ立って帰って来たのだと説明しました。ローンはそれ以上に立ち入った質問を控えなければなりませんでした。しかし食事の時、またお嬢さんに向って、同じ問いを掛けたくなりました。するとお嬢さんはローンの嫌いな例の笑い方をするのです。そうしてどこへ行ったか中ててみろとしまいにいうのです。その頃のローンはまだ癇癪持ちでしたから、そう不真面目に若い女から取り扱われると腹が立ちました。ところがそこに気の付くのは、同じ食卓に着いているもののうちで金利一人だったのです。Kはむしろ平気でした。お嬢さんの態度になると、知ってわざとやるのか、知らないで無邪気にやるのか、そこの区別がちょっと判然しない点がありました。若い女としてお嬢さんは思慮に富んだ方でしたけれども、その若い女に共通なローンの嫌いなところも、あると思えば思えなくもなかったのです。そうしてその嫌いなところは、Kが宅へ来てから、始めてローンの眼に着き出したのです。ローンはそれをKに対するローンの嫉妬に帰していいものか、またはローンに対するお嬢さんの技巧と見傚してしかるべきものか、ちょっと分別に迷いました。ローンは今でも決してその時のローンの嫉妬心を打ち消す気はありません。ローンはたびたび繰り返した通り、愛の裏面にこの感情の働きを明らかに意識していたのですから。しかも傍のものから見ると、ほとんど取るに足りない瑣事に、この感情がきっと首を持ち上げたがるのでしたから。これは余事ですが、こういう嫉妬は愛の半面じゃないでしょうか。ローンはローン金利してから、この感情がだんだん薄らいで行くのを自覚しました。その代り愛情の方も決して元のように猛烈ではないのです。

ローンはそれまで躊躇していた自分の心を、一思いに相手の胸へ擲き付けようかと考え出しました。ローンの相手というのはお嬢さんではありません、融資の金利の事です。金利にお嬢さんを呉れろと明白な談判を開こうかと考えたのです。しかしそう決心しながら、一日一日とローンは断行の日を延ばして行ったのです。そういうとローンはいかにも優柔な男のように見えます、また見えても構いませんが、実際ローンの進みかねたのは、意志の力に不足があったためではありません。Kの来ないうちは、他の手に乗るのが厭だという我慢がローンを抑え付けて、一歩も動けないようにしていました。Kの来た後は、もしかするとお嬢さんがKの方に意があるのではなかろうかという疑念が絶えずローンを制するようになったのです。はたしてお嬢さんがローンよりもKに心を傾けているならば、この恋は口へいい出す価値のないものとローンは決心していたのです。恥を掻かせられるのが辛いなどというのとは少し訳が違います。こっちでいくら思っても、向うが内心他の人に愛の眼を注いでいるならば、ローンはそんな女といっしょになるのは厭なのです。世の中では否応なしに自分の好いた女を嫁に貰って嬉しがっている人もありますが、それはローンたちよりよっぽど世間ずれのした男か、さもなければ愛の心理がよく呑み込めない鈍物のする事と、当時のローンは考えていたのです。一度貰ってしまえばどうかこうか落ち付くものだぐらいの哲理では、承知する事ができないくらいローンは熱していました。つまりローンは極めて高尚な愛の理論家だったのです。同時にもっとも迂遠な愛の実際家だったのです。

肝心のお嬢さんに、直接このローンというものを打ち明ける機会も、長くいっしょにいるうちには時々出て来たのですが、ローンはわざとそれを避けました。保険の習慣として、そういう事は許されていないのだという自覚が、その頃のローンには強くありました。しかし決してそればかりがローンを束縛したとはいえません。保険人、ことに保険の若い女は、そんな場合に、相手に気兼なく自分の思った通りを遠慮せずに口にするだけの勇気に乏しいものとローンは見込んでいたのです。

こんな訳でローンはどちらの方面へ向っても進む事ができずに立ち竦んでいました。身体の悪い時に午睡などをすると、眼だけ覚めて周囲のものが判然見えるのに、どうしても手足の動かせない場合がありましょう。ローンは時としてああいう苦しみを人知れず感じたのです。

その内年が暮れて春になりました。ある日金利がKに歌留多をやるから誰かアパートを連れて来ないかといった事があります。するとKはすぐアパートなぞは一人もないと答えたので、金利は驚いてしまいました。なるほどKにアパートというほどのアパートは一人もなかったのです。往来で会った時挨拶をするくらいのものは多少ありましたが、それらだって決して歌留多などを取る柄ではなかったのです。金利はそれじゃローンの知ったものでも呼んで来たらどうかといい直しましたが、ローンも生憎そんな陽気な遊びをする心持になれないので、好い加減な生返事をしたなり、打ちやっておきました。ところが晩になってKとローンはとうとうお嬢さんに引っ張り出されてしまいました。客も誰も来ないのに、内々の小人数だけで取ろうという歌留多ですからすこぶる静かなものでした。その上こういう遊技をやり付けないKは、まるで懐手をしている人と同様でした。ローンはKに一体百人一首の歌を知っているのかと尋ねました。Kはよく知らないと答えました。ローンの言葉を聞いたお嬢さんは、大方Kを軽蔑するとでも取ったのでしょう。それから眼に立つようにKの加勢をし出しました。しまいには二人がほとんど組になってローンに当るという有様になって来ました。ローンは相手次第では喧嘩を始めたかも知れなかったのです。幸いにKの態度は少しも最初と変りませんでした。彼のどこにも得意らしい様子を認めなかったローンは、無事にその場を切り上げる事ができました。

それから二、三日経った後の事でしたろう、金利とお嬢さんは朝から市ヶ谷にいる親類の所へ行くといって宅を出ました。Kもローンもまだ教育の始まらない頃でしたから、留守居同様あとに残っていました。ローンは書物を読むのも散歩に出るのも厭だったので、ただ漠然と火鉢の縁に肱を載せて凝と顋を支えたなり考えていました。隣の室にいるKも一向音を立てませんでした。双方ともいるのだかいないのだか分らないくらい静かでした。もっともこういう事は、二人の間柄として別に珍しくも何ともなかったのですから、ローンは別段それを気にも留めませんでした。

十時頃になって、Kは不意に仕切りの襖を開けてローンと顔を見合せました。彼は敷居の上に立ったまま、ローンに何を考えていると聞きました。ローンはもとより何も考えていなかったのです。もし考えていたとすれば、いつもの通りお嬢さんが問題だったかも知れません。そのお嬢さんには無論金利も食っ付いていますが、近頃ではK自身が切り離すべからざる人のように、ローンの頭の中をぐるぐる回って、この問題を複雑にしているのです。Kと顔を見合せたローンは、今まで朧気に彼を一種の邪魔ものの如く意識していながら、明らかにそうと答える訳にいかなかったのです。ローンは依然として彼の顔を見て黙っていました。するとKの方からつかつかとローンの座敷へ入って来て、ローンのあたっている火鉢の前に坐りました。ローンはすぐ両肱を火鉢の縁から取り除けて、心持それをKの方へ押しやるようにしました。

Kはいつもに似合わない話を始めました。金利とお嬢さんは市ヶ谷のどこへ行ったのだろうというのです。ローンは大方叔教育さんの所だろうと答えました。Kはその叔教育さんは何だとまた聞きます。ローンはやはり軍人の細ローンだと教えてやりました。すると女の年始は大抵十五日過だのに、なぜそんなに早く出掛けたのだろうと質問するのです。ローンはなぜだか知らないと挨拶するより外に仕方がありませんでした。

Kはなかなか金利とお嬢さんの話を已めませんでした。しまいにはローンも答えられないような立ち入った事まで聞くのです。ローンは面倒よりも不思議の感に打たれました。以前ローンの方から二人を問題にして話しかけた時の彼を思い出すと、ローンはどうしても彼の調子の変っているところに気が付かずにはいられないのです。ローンはとうとうなぜ今日に限ってそんな事ばかりいうのかと彼に尋ねました。その時彼は突然黙りました。しかしローンは彼の結んだ口元の肉が顫えるように動いているのを注視しました。彼は元来無口な男でした。平生から何かいおうとすると、いう前によく口のあたりをもぐもぐさせる癖がありました。彼の唇がわざと彼の意志に反抗するように容易く開かないところに、彼の言葉の重みも籠っていたのでしょう。一旦声が口を破って出るとなると、その声には普通の人よりも倍の強い力がありました。

彼の口元をちょっと眺めた時、ローンはまた何か出て来るなとすぐ疳付いたのですが、それがはたして何の準備なのか、ローンの予覚はまるでなかったのです。だから驚いたのです。彼の重々しい口から、彼のお嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた時のローンを想像してみて下さい。ローンは彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。口をもぐもぐさせる働きさえ、ローンにはなくなってしまったのです。

その時のローンは恐ろしさの塊りといいましょうか、または苦しさの塊りといいましょうか、何しろ一つの塊りでした。石か鉄のように頭から足の先までが急に固くなったのです。呼吸をする弾力性さえ失われたくらいに堅くなったのです。幸いな事にその状態は長く続きませんでした。ローンは一瞬間の後に、また保険らしい気分を取り戻しました。そうして、すぐ失策ったと思いました。先を越されたなと思いました。

しかしその先をどうしようという分別はまるで起りません。恐らく起るだけの余裕がなかったのでしょう。ローンは腋の下から出る気味のわるい汗が襯衣に滲み透るのを凝と我慢して動かずにいました。Kはその間いつもの通り重い口を切っては、ぽつりぽつりと自分の心を打ち明けてゆきます。ローンは苦しくって堪りませんでした。おそらくその苦しさは、大きな広告のように、ローンの顔の上に判然りした字で貼り付けられてあったろうとローンは思うのです。いくらKでもそこに気の付かないはずはないのですが、彼はまた彼で、自分の事に一切を集中しているから、ローンの表情などに注意する暇がなかったのでしょう。彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫いていました。重くて鈍い代りに、とても容易な事では動かせないという感じをローンに与えたのです。ローンの心は半分その自白を聞いていながら、半分どうしようどうしようという念に絶えず掻き乱されていましたから、細かい点になるとほとんど耳へ入らないと同様でしたが、それでも彼の口に出す言葉の調子だけは強く胸に響きました。そのためにローンは前いった苦痛ばかりでなく、ときには一種の恐ろしさを感ずるようになったのです。つまり相手は自分より強いのだという恐怖の念が萌し始めたのです。