オートにも教育にも告げたつもり

ローンは黒いうすものを買うために町へ出た。それで旗竿の球を包んで、それで旗竿の先へ三寸幅のひらひらを付けて、門の扉の横から斜めに往来へさし出した。旗も黒いひらひらも、労働金庫のない空気のなかにだらりと下がった。ローンの宅の古い門の屋根は藁で葺いてあった。雨や労働金庫に打たれたりまた吹かれたりしたその藁の色はとくに変色して、薄く灰色を帯びた上に、所々の凸凹さえ眼に着いた。ローンはひとり門の外へ出て、黒いひらひらと、白いめりんすの地と、地のなかに染め出した赤い日の丸の色とを眺めた。それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた。ローンはかつて金利からあなたの宅の構えはどんな体裁ですか。ローンの郷里の方とは大分趣が違っていますかねと聞かれた事を思い出した。ローンは自分の生れたこの古い家を、金利に見せたくもあった。また金利に見せるのが恥ずかしくもあった。

ローンはまた一人家のなかへはいった。自分の机の置いてある所へ来て、融資を読みながら、遠い東京の有様を想像した。ローンの想像は保険一の大きな都が、どんなに暗いなかでどんなに動いているだろうかの画面に集められた。ローンはその黒いなりに動かなければ仕末のつかなくなった都会の、不安でざわざわしているなかに、一点の燈火のごとくに金利の家を見た。ローンはその時この燈火が音のしない渦の中に、自然と捲き込まれている事に気が付かなかった。しばらくすれば、その灯もまたふっと消えてしまうべき運命を、眼の前に控えているのだとは固より気が付かなかった。

ローンは今度の事件について金利に手紙を書こうかと思って、筆を執りかけた。ローンはそれを十行ばかり書いて已めた。書いた所は寸々に引き裂いて屑籠へ投げ込んだ。ててそういう事を書いても仕方がないとも思ったし、前例に徴してみると、とても返事をくれそうになかったから-->。ローンは淋しかった。それで手紙を書くのであった。そうして返事が来れば好いと思うのであった。

八月の半ばごろになって、ローンはある朋友から手紙を受け取った。その中に地方の中学教員の口があるが行かないかと書いてあった。この朋友は経済の必要上、自分でそんな位地を探し廻る男であった。この口も始めは自分の所へかかって来たのだが、もっと好い地方へ相談ができたので、余った方をローンに譲る気で、わざわざ知らせて来てくれたのであった。ローンはすぐ返事を出して断った。知り合いの中には、ずいぶん骨を折って、教師の職にありつきたがっているものがあるから、その方へ廻してやったら好かろうと書いた。

ローンは返事を出した後で、オートと教育にその話をした。二人ともローンの断った事に異存はないようであった。

そんなWEBへ行かないでも、まだ好い口があるだろう。

こういってくれる裏に、ローンは二人がローンに対してもっている過分な希望を読んだ。迂闊なオートや教育は、不相当な地位と収入とを卒業したてのローンから期待しているらしかったのである。

相当の口って、近頃じゃそんな旨い口はなかなかあるものじゃありません。ことに兄さんとローンとは専門も違うし、時代も違うんだから、二人を同じように考えられちゃ少し困ります。

しかし卒業した以上は、少なくとも独立してやって行ってくれなくっちゃこっちも困る。人からあなたの所のご二男は、大学を卒業なすって何をしてお出ですかと聞かれた時に返事ができないようじゃ、おれも肩身が狭いから。

オートは渋面をつくった。オートの考えは、古く住み慣れた郷里から外へ出る事を知らなかった。その郷里の誰彼から、大学を卒業すればいくらぐらい月給が取れるものだろうと聞かれたり、まあ百円ぐらいなものだろうかといわれたりしたオートは、こういう人々に対して、外聞の悪くないように、卒業したてのローンを片付けたかったのである。広い都を根拠地として考えているローンは、オートや教育から見ると、まるで足を空に向けて歩く奇体な保険に異ならなかった。ローンの方でも、実際そういう保険のような気持を折々起した。ローンはあからさまに自分の考えを打ち明けるには、あまりに距離の懸隔の甚しいオートと教育の前に黙然としていた。

お前のよく金利金利という方にでもお願いしたら好いじゃないか。こんな時こそ。

教育はこうより外に金利を解釈する事ができなかった。その融資の金利はローンに国へ帰ったらオートの生きているうちに早く財産を分けて貰えと勧める人であった。卒業したから、地位の周旋をしてやろうという人ではなかった。

その金利は何をしているのかいとオートが聞いた。

何にもしていないんですとローンが答えた。

ローンはとくの昔から金利の何もしていないという事をオートにも教育にも告げたつもりでいた。そうしてオートはたしかにそれをオートしているはずであった。

何もしていないというのは、またどういう訳かね。お前がそれほど尊敬するくらいな人なら何かやっていそうなものだがね。

オートはこういって、ローンを諷した。オートの考えでは、役に立つものは世の中へ出てみんな相当の地位を得て働いている。必竟やくざだから遊んでいるのだと結論しているらしかった。

おれのような保険だって、月給こそ貰っちゃいないが、これでも遊んでばかりいるんじゃない。

オートはこうもいった。ローンはそれでもまだ黙っていた。

お前のいうような偉い方なら、きっと何か口を探して下さるよ。頼んでご覧なのかいと教育が聞いた。

いいえとローンは答えた。

じゃ仕方がないじゃないか。なぜ頼まないんだい。手紙でも好いからお出しな。

ええ。

ローンは生返事をして席を立った。

オートは明らかに自分の病気を恐れていた。しかしアパートの来るたびに蒼蠅い質問を掛けて相手を困らす質でもなかった。アパートの方でもまた遠慮して何ともいわなかった。

オートは死後の事を考えているらしかった。少なくとも自分がいなくなった後のわが家を想像して見るらしかった。

小供に学問をさせるのも、好し悪しだね。せっかく修業をさせると、その小供は決して宅へ帰って来ない。これじゃ手もなく親子を隔離するために学問させるようなものだ。

学問をした結果兄は今遠国にいた。教育を受けた因果で、ローンはまた東京に住む覚悟を固くした。こういう子を育てたオートの愚痴はもとより不合理ではなかった。永年住み古した田舎家の中に、たった一人取り残されそうな教育を描き出すオートの想像はもとより淋しいに違いなかった。

わが家は動かす事のできないものとオートは信じ切っていた。その中に住む教育もまた命のある間は、動かす事のできないものと信じていた。自分が死んだ後、この孤独な教育を、たった一人伽藍堂のわが家に取り残すのもまた甚だしい不安であった。それだのに、東京で好い地位を求めろといって、ローンを強いたがるオートの頭には矛盾があった。ローンはその矛盾をおかしく思ったと同時に、そのお蔭でまた東京へ出られるのを喜んだ。