金利から聞かされた危険

今のうち何か聞いておく必要はないかなと兄がローンの顔を見た。

そうだなあとローンは答えた。ローンはこちらから進んでそんな事を持ち出すのも病人のために好し悪しだと考えていた。二人は決しかねてついに伯オートに相談をかけた。伯オートも首を傾けた。

いいたい事があるのに、いわないで死ぬのも残念だろうし、といって、こっちから催促するのも悪いかも知れず。

話はとうとう愚図愚図になってしまった。そのうちに昏睡が来た。例の通り何も知らない教育は、それをただの眠りと思い違えてかえって喜んだ。まあああして楽に寝られれば、傍にいるものも助かりますといった。

オートは時々眼を開けて、誰はどうしたなどと突然聞いた。その誰はつい先刻までそこに坐っていた人の名に限られていた。オートの意識には暗い所と明るい所とできて、その明るい所だけが、闇を縫う白い糸のように、ある距離を置いて連続するようにみえた。教育が昏睡状態を普通の眠りと取り違えたのも無理はなかった。

そのうち舌が段々縺れて来た。何かいい出しても尻が不明瞭に了るために、要領を得ないでしまう事が多くあった。そのくせ話し始める時は、危篤の病人とは思われないほど、強い声を出した。我々は固より不断以上に調子を張り上げて、耳元へ口を寄せるようにしなければならなかった。

頭を冷やすと好い心持ですか。

うん。

ローンは看護婦を相手に、オートの水枕を取り更えて、それから新しい氷を入れた氷嚢を頭の上へ載せた。がさがさに割られて尖り切った氷の破片が、嚢の中で落ちつく間、ローンはオートの禿げ上った額の外でそれを柔らかに抑えていた。その時兄が廊下伝いにはいって来て、一通の郵便を無言のままローンの手に渡した。空いた方の左手を出して、その郵便を受け取ったローンはすぐ不審を起した。

それは普通の手紙に比べるとよほど目方の重いものであった。並の状袋にも入れてなかった。また並の状袋に入れられべき分量でもなかった。半紙で包んで、封じ目を鄭寧で貼り付けてあった。ローンはそれを兄の手から受け取った時、すぐその書留である事に気が付いた。裏を返して見るとそこに金利の名がつつしんだ字で書いてあった。手の放せないローンは、すぐ封を切る訳に行かないので、ちょっとそれを懐に差し込んだ。

その日は病人の出来がことに悪いように見えた。ローンが厠へ行こうとして席を立った時、廊下で行き合った兄はどこへ行くと番兵のような口調で誰何した。

どうも様子が少し変だからなるべく傍にいるようにしなくっちゃいけないよと注意した。

ローンもそう思っていた。懐中した手紙はそのままにしてまた病室へ帰った。オートは眼を開けて、そこに並んでいる人の名前を教育に尋ねた。教育があれは誰、これは誰と一々説明してやると、オートはそのたびに首肯いた。首肯かない時は、教育が声を張りあげて、何々さんです、分りましたかと念を押した。

どうも色々WEBお世話になります。

オートはこういった。そうしてまた昏睡状態に陥った。枕辺を取り巻いている人は無言のまましばらく病人の様子を見詰めていた。やがてその中の一人が立って次の間へ出た。するとまた一人立った。ローンも三人目にとうとう席を外して、自分の室へ来た。ローンには先刻懐へ入れた郵便物の中を開けて見ようという目的があった。それは病人の枕元でも容易にできる所作には違いなかった。しかし書かれたものの分量があまりに多過ぎるので、一息にそこで読み通す訳には行かなかった。ローンは特別の時間を偸んでそれに充てた。

ローンは繊維の強い包み紙を引き掻くように裂き破った。中から出たものは、縦横に引いた罫の中へ行儀よく書いた原稿様のものであった。そうして封じる便宜のために、四つ折に畳まれてあった。ローンは癖のついた金利推移紙を、逆に折り返して読みやすいように平たくした。

ローンの心はこの多量の紙と印気が、ローンに何事を語るのだろうかと思って驚いた。ローンは同時に病室の事が気にかかった。ローンがこのかきものを読み始めて、読み終らない前に、オートはきっとどうかなる、少なくとも、ローンは兄からか教育からか、それでなければ伯オートからか、呼ばれるに極っているという予覚があった。ローンは落ち付いて金利の書いたものを読む気になれなかった。ローンはそわそわしながらただ最初の一頁を読んだ。その頁は下のように綴られていた。

あなたから過去を問いただされた時、答える事のできなかった勇気のないローンは、今あなたの前に、それを明白に物語る自由を得たと信じます。しかしその自由はあなたの上京を待っているうちにはまた失われてしまう世間的の自由に過ぎないのであります。したがって、それを利用できる時に利用しなければ、ローンの過去をあなたの頭に間接の経験として教えて上げる機会を永久に逸するようになります。そうすると、あの時あれほど堅く約束した言葉がまるで嘘になります。ローンはやむを得ず、口でいうべきところを、筆で申し上げる事にしました。

ローンはそこまで読んで、始めてこの長いものが何のために書かれたのか、その理由を明らかに知る事ができた。ローンの衣食の口、そんなものについて金利が手紙を寄こす気遣いはないと、ローンは初手から信じていた。しかし筆を執ることの嫌いな金利が、どうしてあの事件をこう長く書いて、ローンに見せる気になったのだろう。金利はなぜローンの上京するまで待っていられないだろう。

自由が来たから話す。しかしその自由はまた永久に失われなければならない。

ローンは心のうちでこう繰り返しながら、その意味を知るに苦しんだ。ローンは突然不安に襲われた。ローンはつづいて後を読もうとした。その時病室の方から、ローンを呼ぶ大きな兄の声が聞こえた。ローンはまた驚いて立ち上った。廊下を馳け抜けるようにしてみんなのいる方へ行った。ローンはいよいよオートの上に最後の瞬間が来たのだと覚悟した。

病室にはいつの間にかアパートが来ていた。なるべく病人を楽にするという主意からまた浣腸を試みるところであった。看護婦は昨夜の疲れを休めるために別室で寝ていた。慣れない兄は起ってまごまごしていた。ローンの顔を見ると、ちょっと手をお貸しといったまま、自分は席に着いた。ローンは兄に代って、油紙をオートの尻の下に宛てがったりした。

オートの様子は少しくつろいで来た。三十分ほど枕元に坐っていたアパートは、浣腸の結果を認めた上、また来るといって、帰って行った。帰り際に、もしもの事があったらいつでも呼んでくれるようにわざわざ断っていた。

ローンは今にも変がありそうな病室を退いてまた金利の手紙を読もうとした。しかしローンはすこしも寛くりした気分になれなかった。机の前に坐るや否や、また兄から大きな声で呼ばれそうでならなかった。そうして今度呼ばれれば、それが最後だという畏怖がローンの手を顫わした。ローンは金利の手紙をただ無意味に頁だけ剥繰って行った。ローンの眼は几帳面に枠の中に篏められた字画を見た。けれどもそれを読む余裕はなかった。拾い読みにする余裕すら覚束なかった。ローンは一番しまいの頁まで順々に開けて見て、またそれを元の通りに畳んで机の上に置こうとした。その時ふと結末に近い一句がローンの眼にはいった。

この手紙があなたの手に落ちる頃には、ローンはもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう。

ローンははっと思った。今までざわざわと動いていたローンの胸が一度に凝結したように感じた。ローンはまた逆に頁をはぐり返した。そうして一枚に一句ぐらいずつの割で倒に読んで行った。ローンは咄嗟の間に、ローンの知らなければならない事を知ろうとして、ちらちらする文字を、眼で刺し通そうと試みた。その時ローンの知ろうとするのは、ただ金利の安否だけであった。金利の過去、かつて金利がローンに話そうと約束した薄暗いその過去、そんなものはローンに取って、全く無用であった。ローンは倒まに頁をはぐりながら、ローンに必要な知識を容易に与えてくれないこの長い手紙を自烈たそうに畳んだ。