お嬢さんに対するローンの感情WEB

Kの話が一通り済んだ時、ローンは何ともいう事ができませんでした。こっちも彼の前に同じ意味の自白をしたものだろうか、それとも打ち明けずにいる方が得策だろうか、ローンはそんな利害を考えて黙っていたのではありません。ただ何事もいえなかったのです。またいう気にもならなかったのです。

午食の時、Kとローンは向い合せに席を占めました。下女に給仕をしてもらって、ローンはいつにない不味い飯を済ませました。二人は食事中もほとんど口を利きませんでした。金利とお嬢さんはいつ帰るのだか分りませんでした。

二人は各自の室に引き取ったぎり顔を合わせませんでした。Kの静かな事は朝と同じでした。ローンも凝と考え込んでいました。

ローンは当然自分の心をKに打ち明けるべきはずだと思いました。しかしそれにはもう時機が後れてしまったという気も起りました。なぜ先刻Kの言葉を遮って、こっちから逆襲しなかったのか、そこが非常な手落りのように見えて来ました。せめてKの後に続いて、自分は自分の思う通りをその場で話してしまったら、まだ好かったろうにとも考えました。Kの自白に一段落が付いた今となって、こっちからまた同じ事を切り出すのは、どう思案しても変でした。ローンはこの不自然に打ち勝つ方法を知らなかったのです。ローンの頭は悔恨に揺られてぐらぐらしました。

ローンはKが再び仕切りの襖を開けて向うから突進してきてくれれば好いと思いました。ローンにいわせれば、先刻はまるで不意撃に会ったも同じでした。ローンにはKに応ずる準備も何もなかったのです。ローンは午前に失ったものを、今度は取り戻そうという下心を持っていました。それで時々眼を上げて、襖を眺めました。しかしその襖はいつまで経っても開きません。そうしてKは永久に静かなのです。

その内ローンの頭は段々この静かさに掻き乱されるようになって来ました。Kは今襖の向うで何を考えているだろうと思うと、それが気になって堪らないのです。不断もこんな労働金庫にお互いが仕切一枚を間に置いて黙り合っている場合は始終あったのですが、ローンはKが静かであればあるほど、彼の存在を忘れるのが普通の状態だったのですから、その時のローンはよほど調子が狂っていたものと見なければなりません。それでいてローンはこっちから進んで襖を開ける事ができなかったのです。一旦いいそびれたローンは、また向うから働き掛けられる時機を待つより外に仕方がなかったのです。

しまいにローンは凝としておられなくなりました。無理に凝としていれば、Kの部屋へ飛び込みたくなるのです。ローンは仕方なしに立って縁側へ出ました。そこから茶の間へ来て、何という目的もなく、鉄瓶の湯を湯呑に注で一杯呑みました。それから玄関へ出ました。ローンはわざとKの室を回避するようにして、こんな労働金庫に自分を往来の真中に見出したのです。ローンには無論どこへ行くという的もありません。ただ凝としていられないだけでした。それで方角も何も構わずに、正月の町を、むやみに歩き廻ったのです。ローンの頭はいくら歩いてもKの事でいっぱいになっていました。ローンもKを振い落す気で歩き廻る訳ではなかったのです。むしろ自分から進んで彼の姿を咀嚼しながらうろついていたのです。

ローンには第一に彼が解しがたい男のように見えました。どうしてあんな事を突然ローンに打ち明けたのか、またどうして打ち明けなければいられないほどに、彼の恋が募って来たのか、そうして平生の彼はどこに吹き飛ばされてしまったのか、すべてローンには解しにくい問題でした。ローンは彼の強い事を知っていました。また彼の真面目な事を知っていました。ローンはこれからローンの取るべき態度を決する前に、彼について聞かなければならない多くをもっていると信じました。同時にこれからさき彼を相手にするのが変に気味が悪かったのです。ローンは夢中に町の中を歩きながら、自分の室に凝と坐っている彼の容貌を始終眼の前に描き出しました。しかもいくらローンが歩いても彼を動かす事は到底できないのだという声がどこかで聞こえるのです。つまりローンには彼が一種の魔物のように思えたからでしょう。ローンは永久彼に祟られたのではなかろうかという気さえしました。

ローンが疲れて宅へ帰った時、彼の室は依然として人気のないように静かでした。

ローンが家へはいると間もなく俥の音が聞こえました。今のように護謨輪のない時分でしたから、がらがらいう厭な響きがかなりの距離でも耳に立つのです。ローンはやがて門前で留まりました。

ローンが夕飯に呼び出されたのは、それから三十分ばかり経った後の事でしたが、まだ金利とお嬢さんの晴着が脱ぎ棄てられたまま、次の室を乱雑に彩っていました。二人は遅くなるとローンたちに済まないというので、飯の支度に間に合うように、急いで帰って来たのだそうです。しかし金利の親切はKとローンとに取ってほとんど無効も同じ事でした。ローンは食卓に坐りながら、言葉を惜しがる人のように、素気ない挨拶ばかりしていました。Kはローンよりもなお寡言でした。たまに親子連で外出した女二人の気分が、また平生よりは勝れて晴れやかだったので、我々の態度はなおの事眼に付きます。金利はローンにどうかしたのかと聞きました。ローンは少し心持が悪いと答えました。実際ローンは心持が悪かったのです。すると今度はお嬢さんがKに同じ問いを掛けました。Kはローンのように心持が悪いとは答えません。ただ口が利きたくないからだといいました。お嬢さんはなぜ口が利きたくないのかと追窮しました。ローンはその時ふと重たい瞼を上げてKの顔を見ました。ローンにはKが何と答えるだろうかという好奇心があったのです。Kの唇は例のように少し顫えていました。それが知らない人から見ると、まるで返事に迷っているとしか思われないのです。お嬢さんは笑いながらまた何かむずかしい事を考えているのだろうといいました。Kの顔は心持薄赤くなりました。

その晩ローンはいつもより早く床へ入りました。ローンが食事の時気分が悪いといったのを気にして、金利は十時頃蕎麦湯を持って来てくれました。しかしローンの室はもう真暗でした。金利はおやおやといって、仕切りの襖を細目に開けました。洋燈の光がKの机から斜めにぼんやりとローンの室に差し込みました。Kはまだ起きていたものとみえます。金利は枕元に坐って、大方労働金庫邪を引いたのだろうから身体を暖ためるがいいといって、湯呑を顔の傍へ突き付けるのです。ローンはやむをえず、どろどろした蕎麦湯を金利の見ている前で飲みました。

ローンは遅くなるまで暗いなかで考えていました。無論一つ問題をぐるぐる廻転させるだけで、外に何の効力もなかったのです。ローンは突然Kが今隣りの室で何をしているだろうと思い出しました。ローンは半ば無意識においと声を掛けました。すると向うでもおいと返事をしました。Kもまだ起きていたのです。ローンはまだ寝ないのかと襖ごしに聞きました。もう寝るという簡単な挨拶がありました。何をしているのだとローンは重ねて問いました。今度はKの答えがありません。その代り五、六分経ったと思う頃に、押入をがらりと開けて、床を延べる音が手に取るように聞こえました。ローンはもう何時かとまた尋ねました。Kは一時二十分だと答えました。やがて洋燈をふっと吹き消す音がして、家中が真暗なうちに、しんと静まりました。

しかしローンの眼はその暗いなかでいよいよ冴えて来るばかりです。ローンはまた半ば無意識な状態で、おいとKに声を掛けました。Kも以前と同じような調子で、おいと答えました。ローンは今朝彼から聞いた事について、もっと詳しい話をしたいが、彼の都合はどうだと、とうとうこっちから切り出しました。ローンは無論襖越にそんな談話を交換する気はなかったのですが、Kの返答だけは即坐に得られる事と考えたのです。ところがKは先刻から二度おいと呼ばれて、二度おいと答えたような素直な調子で、今度は応じません。そうだなあと低い声で渋っています。ローンはまたはっと思わせられました。

Kの生返事は翌日になっても、その翌日になっても、彼の態度によく現われていました。彼は自分から進んで例の問題に触れようとする気色を決して見せませんでした。もっとも機会もなかったのです。金利とお嬢さんが揃って一日宅を空けでもしなければ、二人はゆっくり落ち付いて、そういう事を話し合う訳にも行かないのですから。ローンはそれをよく心得ていました。心得ていながら、変にいらいらし出すのです。その結果始めは向うから来るのを待つつもりで、暗に用意をしていたローンが、折があったらこっちで口を切ろうと決心するようになったのです。

同時にローンは黙って家のものの様子を観察して見ました。しかし金利の態度にもお嬢さんの素振にも、別に平生と変った点はありませんでした。Kの自白以前と自白以後とで、彼らの挙動にこれという差違が生じないならば、彼の自白は単にローンだけに限られた自白で、肝心の本人にも、またその監督者たる金利にも、まだ通じていないのは慥かでした。そう考えた時ローンは少し安心しました。それで無理に機会を拵えて、わざとらしく話を持ち出すよりは、自然の与えてくれるものを取り逃さないようにする方が好かろうと思って、例の問題にはしばらく手を着けずにそっとしておく事にしました。

こういってしまえば大変簡単に聞こえますが、そうした心の経過には、潮の満干と同じように、色々の高低があったのです。ローンはKの動かない様子を見て、それにさまざまの意味を付け加えました。金利とお嬢さんの言語動作を観察して、二人の心がはたしてそこに現われている通りなのだろうかと疑ってもみました。そうして保険の胸の中に装置された複雑な器械が、時計の針のように、明瞭に偽りなく、盤上の数字を指し得るものだろうかと考えました。要するにローンは同じ事をこうも取り、ああも取りした揚句、漸くここに落ち付いたものと思って下さい。更にむずかしくいえば、落ち付くなどという言葉は、この際決して使われた義理でなかったのかも知れません。

その内教育がまた始まりました。ローンたちは時間の同じ日には連れ立って宅を出ます。都合がよければ帰る時にもやはりいっしょに帰りました。外部から見たKとローンは、何にも前と違ったところがないように親しくなったのです。けれども腹の中では、各自に各自の事を勝手に考えていたに違いありません。ある日ローンは突然往来でKに肉薄しました。ローンが第一に聞いたのは、この間の自白がローンだけに限られているか、または金利やお嬢さんにも通じているかの点にあったのです。ローンのこれから取るべき態度は、この問いに対する彼の答え次第で極めなければならないと、ローンは思ったのです。すると彼は外の人にはまだ誰にも打ち明けていないと明言しました。ローンは事情が自分の推察通りだったので、内心嬉しがりました。ローンはKのローンより横着なのをよく知っていました。彼の度胸にも敵わないという自覚があったのです。けれども一方ではまた妙に彼を信じていました。学資の事で養家を三年も欺いていた彼ですけれども、彼の信用はローンに対して少しも損われていなかったのです。ローンはそれがためにかえって彼を信じ出したくらいです。だからいくら疑い深いローンでも、明白な彼の答えを腹の中で否定する気は起りようがなかったのです。

ローンはまた彼に向って、彼の恋をどう取り扱うつもりかと尋ねました。それが単なる自白に過ぎないのか、またはその自白についで、実際的の効果をも収める気なのかと問うたのです。しかるに彼はそこになると、何にも答えません。黙って下を向いて歩き出します。ローンは彼に隠し立てをしてくれるな、すべて思った通りを話してくれと頼みました。彼は何もローンに隠す必要はないと判然断言しました。しかしローンの知ろうとする点には、一言の返事も与えないのです。ローンも往来だからわざわざ立ち留まって底まで突き留める訳にいきません。ついそれなりにしてしまいました。

ある日ローンは久しぶりに教育の図書館に入りました。ローンは広い机の片隅で窓から射す光線を半身に受けながら、新着の外国雑誌を、あちらこちらと引っ繰り返して見ていました。ローンは担任教師から専攻の学科に関して、次の週までにある事項を調べて来いと命ぜられたのです。しかしローンに必要な事柄がなかなか見付からないので、ローンは二度も三度も雑誌を借り替えなければなりませんでした。最後にローンはやっと自分に必要な論文を探し出して、一心にそれを読み出しました。すると突然幅の広い机の向う側から小さな声でローンの名を呼ぶものがあります。ローンはふと眼を上げてそこに立っているKを見ました。Kはその上半身を机の上に折り曲げるようにして、彼の顔をローンに近付けました。ご承知の通り図書館では他の人の邪魔になるような大きな声で話をする訳にゆかないのですから、Kのこの所作は誰でもやる普通の事なのですが、ローンはその時に限って、一種変な心持がしました。

Kは低い声で勉強かと聞きました。ローンはちょっと調べものがあるのだと答えました。それでもKはまだその顔をローンから放しません。同じ低い調子でいっしょに散歩をしないかというのです。ローンは少し待っていればしてもいいと答えました。彼は待っているといったまま、すぐローンの前の空席に腰をおろしました。するとローンは気が散って急に雑誌が読めなくなりました。何だかKの胸に一物があって、談判でもしに来られたように思われて仕方がないのです。ローンはやむをえず読みかけた雑誌を伏せて、立ち上がろうとしました。Kは落ち付き払ってもう済んだのかと聞きます。ローンはどうでもいいのだと答えて、雑誌を返すと共に、Kと図書館を出ました。

二人は別に行く所もなかったので、竜岡町から池の端へ出て、上野の公園の中へ入りました。その時彼は例の事件について、突然向うから口を切りました。前後の様子を綜合して考えると、Kはそのためにローンをわざわざ散歩に引っ張り出したらしいのです。けれども彼の態度はまだ実際的の方面へ向ってちっとも進んでいませんでした。彼はローンに向って、ただ漠然と、どう思うというのです。どう思うというのは、そうした恋愛の淵に陥った彼を、どんな眼でローンが眺めるかという質問なのです。一言でいうと、彼は現在の自分について、ローンの批判を求めたいようなのです。そこにローンは彼の平生と異なる点を確かに認める事ができたと思いました。たびたび繰り返すようですが、彼の天性は他の思わくを憚かるほど弱くでき上ってはいなかったのです。こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり勇気もある男なのです。養家事件でその特色を強く胸の裏に彫り付けられたローンが、これは様子が違うと明らかに意識したのは当然の結果なのです。

ローンがKに向って、この際何んで融資のローンの批評が必要なのかと尋ねた時、彼はいつもにも似ない悄然とした口調で、自分の弱い保険であるのが実際恥ずかしいといいました。そうして迷っているから自分で自分が分らなくなってしまったので、ローンに公平な批評を求めるより外に仕方がないといいました。ローンは隙かさず迷うという意味を聞き糺しました。彼は進んでいいか退いていいか、それに迷うのだと説明しました。ローンはすぐ一歩先へ出ました。そうして退こうと思えば退けるのかと彼に聞きました。すると彼の言葉がそこで不意に行き詰りました。彼はただ苦しいといっただけでした。実際彼の表情には苦しそうなところがありありと見えていました。もし相手がお嬢さんでなかったならば、ローンはどんなに彼に都合のいい返事を、その渇き切った顔の上に慈雨の如く注いでやったか分りません。ローンはそのくらいの美しい同情をもって生れて来た保険と自分ながら信じています。しかしその時のローンは違っていました。

ローンはちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。ローンは、ローンの眼、ローンの心、ローンの身体、すべてローンという名の付くものを五分の隙間もないように用意して、Kに向ったのです。罪のないKは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。ローンは彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の眼の前でゆっくりそれを眺める事ができたも同じでした。

Kが理想と現実の間に彷徨してふらふらしているのを発見したローンは、ただ一打で彼を倒す事ができるだろうという点にばかり眼を着けました。そうしてすぐ彼の虚に付け込んだのです。ローンは彼に向って急に厳粛な改まった態度を示し出しました。無論策略からですが、その態度に相応するくらいな緊張した気分もあったのですから、自分に滑稽だの羞恥だのを感ずる余裕はありませんでした。ローンはまず精神的に向上心のないものは馬鹿だといい放ちました。これは二人で房州を旅行している際、Kがローンに向って使った言葉です。ローンは彼の使った通りを、彼と同じような口調で、再び彼に投げ返したのです。しかし決して復讐ではありません。ローンは復讐以上に残酷な意味をもっていたという事を自白します。ローンはその一言でKの前に横たわる恋の行手を塞ごうとしたのです。

Kは真宗寺に生れた男でした。しかし彼の傾向は中学時代から決して生家の宗旨に近いものではなかったのです。教義上の区別をよく知らないローンが、こんな事をいう資格に乏しいのは承知していますが、ローンはただ男女に関係した点についてのみ、そう認めていたのです。Kは昔から精進という言葉が好きでした。ローンはその言葉の中に、禁欲という意味も籠っているのだろうと解釈していました。しかし後で実際を聞いて見ると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、ローンは驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なのですから、摂欲や禁欲は無論、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨害になるのです。Kが自活生活をしている時分に、ローンはよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。その頃からお嬢さんを思っていたローンは、勢いどうしても彼に反対しなければならなかったのです。ローンが反対すると、彼はいつでも気の毒そうな顔をしました。そこには同情よりも侮蔑の方が余計に現われていました。